<17>旅好き元OLが両国に開いたハコ ~匣 HAKO HOSTEL AND BAR(前編)
都営大江戸線両国駅から徒歩7分ほど。下町の住宅街に「匣 HAKO HOSTEL AND BAR(ハコ ホステル&バー)」はある。もともと玩具会社の倉庫だった建物で、角地に立つ四角いビルだから“ハコ”。ゲストが思い思いに滞在できる拠点となる場所を目指して建てられた。
ガラス張りの1階はカフェバーラウンジだ。ここでは宿泊客だけでなく、地元のお客さんも立ち寄って気軽にお酒を飲むことができる。メインはビールで、日本、アジア、ヨーロッパなど、各国のビールが40種類以上並ぶ。カウンターに座り、作り立ての香ばしいポップコーンをつまみながらビールを飲めば、気分はすっかり旅行者。バーにはピアノも置いてあり、ときおりお客さんがつま弾くこともあるとか。
「このあたりは住宅街でお店もあまりないんです。だから、観光して帰ってきて、『寝る前に一杯飲みたいな』というゲストのためにラウンジは絶対に作ろうと思っていました。ポップコーンマシンを置いたのは、私が大好きだから(笑)。パチパチ作っていると、それだけで楽しいじゃないですか。普段お店で出すのはピクルスやポップコーンなど簡単なおつまみだけですが、貸し切りパーティーのときはお料理も出しますよ」
オーナーのイノウエさん(50)はそう話す。神奈川県出身のイノウエさんが「匣 HAKO HOSTEL AND BAR」をオープンしたのは2015年の夏。旅好きが高じてゲストハウスを開いたが、実は、それまでは広告制作会社、外資系の銀行や保険会社、金融など多くの会社を渡り歩いたバリバリのOLだった。
「私はいわゆる転職組で……。20歳くらいから33歳までは広告制作会社で働いていて、年中無休でした。大箱のイベントを企画したり、プレゼンの企画書を書いたり、現場のいわゆるパシリだったり。最初はアルバイトだったんですが、プレゼン資料のフィニッシュ作業屋としてあちこちのクライアントから仕事をもらうようになり、26歳で独立、フリーランスとして働くようになりました」
イノウエさんは当時から旅が好きだったので、仕事の合間を縫っては、2週間から1カ月、アジアやヨーロッパを旅していた。自分でスケジュールを調整し、好きなときに休めるフリーランスはぴったりの働き方だった。しかし、33歳で広告の仕事を辞める。きっかけは離婚だった。
外資系の銀行→保険会社→ロンドン→金融コンサル
「一人で自立して食べて行かなきゃと思ったんですが、精神的にかなり疲れてしまって……。それまで通りガツガツとフリーランスで働く自信がなかったんです。それで、就職しようかなと」
イノウエさんは高校卒業後、1年間ハワイ大学の聴講生として英語を学んでいたことがある。そこで語学力を生かそうと、まずは外資系の銀行の扉をたたいたのだ。最初は外資の銀行で派遣として働き、半年後に外資系の保険会社に転職した。
転職先は立ち上がったばかりの会社だ。入社時は35人程度だったが、その後急成長し、2年間で200人規模にまで拡大。結局、6年間その会社で働いた。その後、ふたたび外資系の保険会社に転職し、2007年にロンドンへ。ビジネスには自信がなかった英語を再度学ぶためと、あるベンチャー起業で働くためだった。
しかしちょうど翌年、リーマンショックが起こる。関わっていたプロジェクトもあっという間に潰れ、ロンドンでビジネススクールに通いながら日本での就職の機会を狙い、2009年に帰国した。「本当にお金もなくて、食べるにも事欠く感じでしたね」とイノウエさんは当時を振り返る。
ロンドンから帰国後、今度は金融系のコンサルティングファームに就職した。配属は人事部だったが、この仕事が予想以上にきつかった。
「とにかく忍耐力を学びました。すべてトップダウンなので、アメリカの本社が判断したことを、どう切り替えしていくか……。社員の多くが外国人だったので、英語の交渉力も鍛えられた気がします」
しかも、在職中に会社の買収話が持ち上がった。同じ部署に何人も社員は必要なく、またも転職となる。
次の転職先は、商品先物取引等を扱う外資系金融会社だった。オフィスマネジャーとして順調に勤務していたが、ここでも買収の話が浮上し、イノウエさんは人事担当として15人以上の社員のクビを切る立場になった。
同僚のクビを切り続けるさなか思った。「次は私だ」
「朝出勤すると、当事者に『人事部に何時に来てください』というメールを出すんです。何も知らない社員は『何ですか~?』って部屋に入ってくるんですが、そこでこう告げるんです。『カンパニーディシジョンで申し訳ないんですが、今日の午後で退職していただくことになりました。ここで社員証を返していただいて、これから荷物をまとめ、裏口からお帰りください』って。本当に厳しかったです。それを1カ月くらいでまとめてやったんです。体調が悪くなり、胃に穴があきそうでした」
日本代表者(社長)も同席していたが、退職にあたる事務処理は彼女の仕事だった。
イノウエさんが退職を告げた中には、仲の良い女子社員もいた。彼女は40歳を目前に2カ月前にマンションを買ったばかりで、さらにタイミングが悪いことに、呼び出した日は彼女の誕生日だった。本当だったら、オフィスのみんなでお祝いをするはずだった。「今日、私の誕生日だって知っていますよね?」と、目の前で泣かれたときのことは、今も脳裏に焼き付いている。
「私もどうしようもないですしね。買収する会社から首切りリストがあがってきて、トップが決めたことを伝えるのが私の仕事でした」
会社にはいい人がたくさんいた。それでも会社の業績が芳しくなければ、出金を抑えなければいけない。どこまでもドライな世界だった。
こうして同僚の首を切っているさなか、イノウエさんは「次は私だ」と思った。買収されて合併したら、向こうの会社からも人事部が来る。以前の職場でもそれを予知して先に退職を決めたのだ。そのとき、イノウエさんの中で何かが変わった。
「もう、人に雇用される生き方はやめよう」