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東京の台所
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〈152〉森のイスキア、30年前の忘れられない言葉

〈住人プロフィール〉
主婦・62歳
分譲マンション・4LDK・京浜東北線 大森駅(大田区)
入居1年・築年数1年
夫(会社役員・69歳)、長男(会社員・36歳)との3人暮らし

    ◇

 社会人になった長女は家を出て、現在は会社員の夫と長男との3人暮らしだ。得意の焼き菓子は、家人は日中食べるタイミングにはいないので、朝ご飯代わりに出すことが多いという。

 取材時に用意されていたそれを賞味すると、しっとりときめの細かい生地に驚かされた。

 「スフレ生地にしてみたのです。そこに紅茶のアールグレーを混ぜました」

 濃厚な生クリームのなかには、ジューシーなシャインマスカットが。季節感あふれるロールケーキは味も見た目も玄人はだしである。つねひごろからよくケーキを焼いている人だとわかった。

 住人は、佐賀の実家から東京に進学。念願の客室乗務員となり、海外へのフライト乗務を経て2年で結婚した。以来40年、一男一女を育てながら今日まで専業主婦として家を切り盛りした。とくに料理は、手抜きせず、きちんとやろうと心に決めてやってきた。

 「いろんな考え方がありますし、どれが正しいというのはないですが、私は子どもが学校から帰ってきたときに母親が家にいた方がいいなと思いました。食生活である程度幸福を感じたら、そんな変な人間にならないだろうと思ったのです。結婚したとき、夫ともそう話して意見が一致したので、家庭に入りました」

 家事も育児もある身にとって、料理に手抜きをしないというのは文字で読むほど簡単ではない。もやしのひげをとるのも、芝エビをむくのも、家族4人分なら1時間かかることもある。

 「ときどき疲れちゃうこともあります。でも、家族のうれしい顔を見たくてやります。私の実家の母も大家族の中、いつも台所に立ってなにかしら料理をしていたので。その影響も大きいかも知れませんね」

 九州の旧家に嫁いだ母は、東京生まれ。慣れない地方で、姑や義姉に囲まれて、10人の大家族の料理を毎日作っていた。新しもの好きで、いち早くオーブンを買い、マカロニグラタンやロールキャベツなど子どもの大好物をこしらえた。

 盆や正月は親戚も集まり、20人近くにふくれあがる。献立を決め、器を決め、朝から晩まで台所に立ちっぱなしで作る。ときには、「口に合わないね」とでも言うかのように、姑と義姉が目配せをしているのを見たこともある。

 だが母は、愚痴ひとついわず、とても楽しそうに台所に立っていた。

 「今思えば、東京から一人佐賀に来て、わからないことだらけでしょうし、辛いこともたくさんあったと思うのですが、いつも笑っていました」

 料理本を熟読しては、新しい料理に次々挑戦し、家族のために毎日おいしいものを作り続ける姿が、彼女にとって“母親像”の原点なのだろう。

 母がかつてそうしたように、子どもが学校から帰宅すると、ケーキが焼ける匂いが漂っている。そんな家庭にしようと思った。

 「とはいえ、私など、母ほどたいへんな思いもしていませんし、たいしたこともしていない。これでいいのかなと思っていた30年くらい前でしょうか。子どもの学校の講演で、森のイスキアと呼ばれる福祉施設を主宰していた佐藤初女さんのお話を聞いたのです。そのとき、初女さんは、“食べるもので人の心は癒やせる”とおっしゃっていて、あ、そうだな、私はこれでいいんだと目が覚めるような思いでした」

 子どもが帰ってくるときの足音、帽子やかばんを置くリズム、「ただ今」の声の調子。そんなささいなことで心の様子がわかる。

 「元気がないときは料理でひとくふうします」

 会社員の夫と息子と暮らす今も、足音や気配で、疲れ具合がわかるという。

 「おつかれーって言うだけで、とくべつ何か声をかけるわけではないけれど、疲れていそうなときは、これだったら喜ぶかなとあれこれ考えながら作りますね」

 たんに、“おいしい”だけではない。料理が人の心にはたらきかけることはたくさんあるのだなと、彼女の話から気づかされる。豪華でなくても手を抜かず、気持ちをこめて作る。あたりまえのことだけれど、簡単にできあいのもの、時短の食材や便利な道具がいくらでもそろう現代では、逆にそれが一番難しいのかもしれない。

 極上のスフレのロールケーキは、ふわふわ柔らかで甘く、どこまでも優しい味がした。疲れているときにこんなケーキが出てきたら、ちょっとした心の角はすぐにとれてなくなってしまうのだろうなあと、この食卓で育った人をうらやましく思った。

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