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東京の台所
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〈155〉思い出宿る食卓塩

〈住人プロフィール〉
フォトグラファー・28歳(女性)
賃貸マンション・2DK・井の頭線 下北沢駅(世田谷区)
入居2年・築年数37年
恋人(フォトグラファー・27歳)と2人暮らし

    ◇

 切らすと困るものはなにかと尋ねたら、住人の彼女は「うーん」と考え込んでしまった。18歳で進学のため、長野から上京。卒業後は、撮影スタジオ、写真家のアシスタントを経て2年半前に独立した。今は、雑誌を中心に活躍中だ。

 忙しいながらも、できるだけ自炊を心がけ、夕食でご飯を炊くときは必ず味噌汁を作る。

 「実家がそうだったので。なにはなくともとにかくごはんと味噌汁はセットなんです。あとは、おかずを2品つくるくらいです」

 料理は好きだが、特にこだわった食材はない。

 「強いて言うなら、塩でしょうか。味を濃くしたいとき、野菜の歯ごたえがほしいときなど、料理や用途に合わせて、塩を変えています。旅先で自分でも買いますし、いただきものも多いですね」

 そう言って彼女は、岩塩やらローズソルト、輪島や海外のものなど珍しい塩を取り出した。

 その中に、ひとつだけよく見慣れた卓上塩があった。「ニュークッキングソルト」。青いキャップに透明のプラスチックボトル。コック帽のシンボルマークが目印の、どこにでもある品だ。発売元は公益財団法人・塩事業センター(旧日本たばこセンター塩事業部門)で、150円ほどで買える。

 数少ないこだわりの塩の中では、逆に目立つ。
 彼女は、ああこれはと話しだした。

 「18歳の上京のとき、母がいろんなものと一緒に持たせてくれたんです。そのへんのスーパーで買ったよくある塩なんですが、今年の春、母が亡くなりまして。塩は使い終わったのですが、なんだか容器が捨てられなくて、中身を入れ替えて使っているんです」

 ──ご病気ですか。

 「末期がんでした。気づいたときにはもう遅くて……。上京以来9年、週に3〜4回は電話やメール、ラインで話していたので、いまだにちょっと、なんというか……」

 彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
 亡くなって7カ月。母の死を受け入れるのに、28歳は若すぎる。

 進学した大学の学問が肌に合わず、フリーペーパーを作るサークル活動にのめり込んだ。その過程で写真の世界に興味を持った。

 3年のときには、企業に就職をせず、写真家を目指したいと真剣に考え始めていた。相談相手は母である。

 「いつも、駅から家まで、歩きながら電話していました。夢見がちな私に母は現実的なことを言うんですね。ほんとうに大丈夫なの? お金はどうするのって。たいてい、うんうんって聞いているんですが、そういうときは“頑張ろうとしているときに、なんでそういうこというの?”と言い返して、けんかになったり。でも、母は絶対的な存在で、私の味方だったなと今なら、よくわかります」

 大きな買い物をするときは必ず相談してきた。

 母が亡くなってから、車を買った。その時気づいた。自分はいかに母に頼り、あまえていたかということを。

 「車のような大きな買い物は不安だから、母がいたらちょっと相談して意見を聞いていたろうな、と。そのとき、ああもう相談する人はいないんだ。これからは全部自分で決めなきゃいけないんだと実感しました」
 同時に、悟った。

 「自立とは、自分の人生に責任を取ること。これが本当に自立するということなんだなと、母が亡くなったことで学びました」

 さらに遠慮がちに、彼女は言う。

 「私、母が亡くなってから、仕事が増えたんです。やっと自立できたのかもしれませんね」

 東京には恋人が、実家には父も妹もいる。だが、母との会話は、その誰とも違う性質と距離感のものだった。ときには母の愚痴を聞き、慰め役もした。友達のような親子だったと彼女は振り返る。

 「話をできる人はたくさんいるけれど、ふとしたときに、これは母に一番に報告したかったなと思うことが今でもたくさんあります」

 母の手料理で好きなのは筑前煮だ。レシピもわかる。これとこれを入れればだいたいあの味になるだろうと見当もついている。だが、まだ作れない。
 「母を思い出しちゃうので」
 彼女の涙はいつ乾くんだろう。筑前煮はいつ作れるんだろう。
 ひとり、故郷から遠く離れて暮らす台所にも、家族のかけらはたくさんしみついている。なんでもない塩の空容器にさえも。

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