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東京の台所
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〈156〉別居婚9年。家族4人初めて一つ屋根の下

〈住人プロフィール〉
大学教員・44歳(女性)
賃貸マンション・2DK・都営大江戸線 落合南長崎駅(新宿区)
入居半年・築年数約17年
夫(44歳・会社員)、長男(8歳)、長女(3歳)との4人暮らし

    ◇

 学生時代の友人と29歳で結婚。荒川区に住んで5年、そろそろマンションを買おうかと考えていた矢先、愛媛県松山市に、大学教員としての職が決まった。

 「駆け出しの研究者は、場所をえり好みせずに縁を求め、求められたところでキャリアを積むことが必要になります。そのため、結婚前から彼には、別居婚の可能性もあると伝えてありました。子どもは当分難しいかもしれない、と」

 交際時代から、お互い「好きな仕事を続けていく」ことを当たり前に考えていたふたりは、別居婚を選択。彼は料理や家事を一人でこなせるので、不安もなかった。

 こうして、結婚6年目、愛媛と東京の二重生活が始まった。

 当時は、単身赴任手当もなく、交通費が自腹なので、2カ月に3度、夫が愛媛に通った。半年後、思いがけず妊娠をした。彼女は育休で東京に戻り、1年間夫と暮らした。そのまま東京で新たな勤務先を探したが見つからず、母子で元の職場に復帰することに。

 「別居婚は、大学では比較的よくある話なのです。ただ、乳飲み子を抱えてというのはみんなに驚かれましたね。でも、私の男性の上司が教員同士の別居婚歴20年というベテランで、すぐそばに目標になる人がいるのは大きな支えでした。上司がそうなので、職場が別居婚に理解があり、恵まれました」

 もうひとつ、幸運な出会いがあった。
 保育所だ。
 認可外の保育所だが、こことの出会いは大きかった。給食はすべて手作りで、釣ってきた魚をさばくこともある。アットホームであたたかい。保育士の何人かは、この保育所で育っていた。

 「園長先生ご夫妻、そのほかの保育者も、ひとりひとりの親や家族に寄り添ってくださった。子どもたちにとっても私自身にとっても、“もう一つの家族“のような存在でした。ひとりだったらとてもやってこられなかった」

 とはいえ、子どもは風邪もひけば、熱も出る。仕事も、研究も深めたい。自分の理想として描く研究者像を考えると、子どもは一人で手いっぱいだと実感していた。

 そのころ、夫が会いに来るのは2カ月に3回である。彼の来訪で一番嬉しかったのは料理だ。

 「普段は子ども中心の食事で、自分の食べたいものをつくる余裕がありません。でも彼が来ると、大人中心の料理を自由に作れた。それが楽しみでしたね」

 彼はやがて大阪に転勤になり、格安航空会社も登場したことで、月3回は会えるようになった。

 5年後、第2子を妊娠。1人で十分と思っていた頃と違い、子育ては、保育所や職場など社会に助けられながら頑張ったらなんとかなる、できることなら2人目も欲しいと思うようになっていた。

 はたからみると、さぞ大変だろうと思うが、別居婚の方が長いふたりにとって、夫婦の形はこれが“普通”。周囲がサポートするのは、それだけ夫婦が外に向けて心を開いていたからであろう。自分たちだけで完結しようとがんばっていたら、こうは思えまい。

 山と海と自然に囲まれ、保育所や勤務先や近所の人に助けられ9年半続いた愛媛暮らしは、東京の大学からの誘いで、今春、終止符を打った。

 「愛媛は子育てがしやすく、何もかも申し分がありませんでした。でも、このまま、子どもたちが父親と毎日の生活の中でかかわりながら暮らす経験なく育てる覚悟はできなかった。ここで決断しなければ後悔すると」

 第二の故郷のような松山の人々との別れを経て、かくして東京へ。
 今春から、初めての親子4人で一つの台所を使う生活が始まった。
 9年ぶりに夫と暮らして、気づいたことがたくさんある。

 「想像以上に夫は頑張ってくれているな、と。幼稚園と小学校とPTA行事は全部彼にお願いしています。長男は愛媛時代、野球をやりたいと言っていたのですが送迎などとても手が回らなくて諦めてもらっていました。今は夫がケアをしてくれるので初めて習わせることができた。子どももうれしそうで本当に良かったなって思います」

 この日も、彼は買い物から帰ってくるとひと息つくまもなく、学童クラブの行事に出かけていった。家事も育児もイーブンで、という姿勢が、肩ひじ張らず自然に伝わってくる。
 彼はこれまでいろんな我慢が辛くなかったのか。彼女はこんな話をした。

 「東京に戻ると決めた日、彼はすぐさま家を探し始めました。よっぽどうれしかったんでしょう。この家は2週間で決めました」
 子どもの育ちの環境として、松山には捨てがたいものがあった。だから夫にこう問いかけた。

 「松山で得ていたゆたかなものと引き換えに東京に戻るということは、子どもに代わりに何を与えられるかを考えなければならない、それでも帰ってきて欲しいのか、という確認はしました。その結果、私も家族で同居するという選択をした一方で、夫も東京に家族を迎えてそこにコミットして生活をする、という選択をした。別居する時も、子どもが生まれた時も“お互いがそれを選択した”という認識でやってきました」

 それはきっと、どちらが主体的に、ということではなく、二人でした選択に互いで責任を持つ。そのための努力は惜しまないようにしようという確認でもあったのだろう。

 仕事で疲れた彼女が、どんな残り物や簡単な料理を作っても、彼は文句を言わない。いつも「おいしい、おいしい」と言って平らげる。
 だがあるとき、子どもと話しているのを聞いたことがある。

 「ママはいつもおいしい朝ご飯を作ってくれるけど、パパはごはんにみそ汁と納豆がいいんだよなー」

 はっとした。どうしても朝は慌ただしいので、パンとコーヒーの洋食にしていた。だが、彼はほんとうは和食が食べたかったのだ。
 そんなささやかなことでさえ、彼女に一切言わないのは、きっと別居解消したことこそが彼の最大の喜びだから。それだけで十分幸せと思っているからなのだろう。

 家族4人、一つ屋根の下。
 この暮らしをするまでに9年かかった。その長さの分だけ、彼の喜びはきっと大きい。

 「定年したら、ゆっくり彼が削った、かつお節のだしのみそ汁を飲めたらいいなあと思います。彼はかつお節削りを婿入り道具に持参しているので」

 狭い台所、ベビーカーで上がれない地下鉄。空き待ちの保育園。
 ふと、彼女はつぶやいた。

 「私、東京で二人で暮らしていたら、子どもを作っていなかったか、いても一人だったかもしれません。東京で二人以上の子どもを育てるって、ホントに大変ですね……」

 大変という言葉がこのとき初めて漏れた。

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