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東京の台所
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〈183〉トマトソースパスタと彼の涙

〈住人プロフィール〉
会社員・44歳(男性)
分譲マンション・2LDK・小田急永山駅(多摩市)
入居1年・築年数約30年・ひとり暮らし

だれといても笑えない自分

 「なんでこんなことになっちゃったんだろうって、考え出すと涙が止まらなくなっちゃって。こんなこと言ったらあれですけど……、自分が消えたくなるときが……あるんですよね」

 言葉を絞り出すように、苦しそうに彼は言った。視線は片手のワイングラスに注がれているが、瞳の奥はもっと遠い時空をさまよっているような、こころもとない色をしている。

 ファッション関係の会社で働く彼は、2年前離婚。幼児ふたりを妻に託し、64平米の現在の部屋に越した。
 「人を招いて料理をふるまうのが好きで、リビングの広い部屋にしました。プロジェクターをつけたかったので壁も広いところを探したんです。ソファを張り替えて、好きなトラックという家具屋で、ベンチ買って。ベンチは、人が来たときにちょっと腰掛けられて便利なんです。それから車も買い替えて。でも、全然気持ちが晴れない。よその子どもの顔を見ると苦しくなってしまって。どんどん笑えなくなっていきました」

 だんだんものが食べられなくなり、料理もしなくなった。毎晩、ひとりで酒を飲み、やがて人を避けるようになる。

 「だれといても笑うことも会話もできないから避けるようになったんでしょうね。完全なコミュニケーション不全。うつの友達がいたので、自分もそうだろうなとわかりました」

 おいうちをかけるように、実家の母が若年性認知症になった。
 「おふくろは症状がみるみるうちに悪化して、ひとりでお風呂も入れなくなりました。もちろん料理もできない。帰るたび、生きているのにもうおふくろの料理を食べられないのかと思うと寂しいです」

 母親のどんな料理が好きだったのか。

 「別にすげー料理がうまかったってわけでもないんですよネ。でも、なんていうのかな。人に振る舞いたくなるような、あったかくて包み込まれるような味でした」

「食べ手のことを思って作った料理は絶対うまくなる」

 いつまでもこうしていてはいけないという思いはあった。だが、心がついていかない。
 そんなとき、2度の離婚経験のある女性の知人からこう言われた。
 「とにかく忙しくして、なるべく人と会った方がいいよ。いつになるかはわからないけれど、踏ん張って今の闇を抜けたら、びっくりするくらい強くなってるから」

 うん、そうかもしれないと思い始めた頃、別の女友達に、男友達Aさんを紹介されて会った。最初からうまが合い、なんでも話せる間柄になれたのは、Aさんの穏やかな人柄と共に、離婚歴があり、元妻のところに娘がいるという状況が同じだったことも大きい。

 まもなく、沿線でおいしいと評判で気になっていたスペインバルを予約し、Aさんを誘った。自分から誰かを誘ったのは久しぶりだ。
 バルで、なにげなくアーティチョークのソテーを頼むと、これがまたとんでもなくおいしい。
 「シンプルなのに、生ハムとオリーブオイルのバランスが絶妙で、追加オーダーしたくらいおいしかった」
 舌鼓を打ちながら彼は思った。──料理は誰かと食べるほうが、断然おいしい。
 やみつきになり、その後はひとりでも通うようになった。
 こうして少しずつ、気を許せる友とうまいものに、彼の後ろ向きの食欲はひきよせられていった。

 バルでもう一つ、いいことがあった。
 明るくてお酒と食べることが好きなホールスタッフの女性に惹(ひ)かれたのだ。
 朗らかな彼女にある日、会話の流れで「うまいところへ行こう」と誘うと、笑顔でうなずいた。

 予約が取れない銀座のレストランやビストロ、イタリアン、ラーメン。おいしいと聞けば、遠くても足を伸ばした。コミュニケーションがまだうまくとれず、心配している同僚たちに、オフも元気に過ごしているよという報告がわりに料理写真をインスタにあげた。恋人ができたからといって、すぐに不全が治るわけではないが、「書き言葉だけのインスタだと饒舌(じょうぜつ)になれた」という彼には、相性のいいツールだったらしい。

 初めて仕事帰りの彼女を家に招いた夜、中学生の時から友達にそうしていたように、冷蔵庫にあるものでささっと料理を作った。
 カルパッチョサラダと肉のグリルだ。深夜でクタクタに疲れ切っていた彼女は、目を丸くして喜んだ。料理を頬張りながらしみじみとつぶやく。
 「やさしいね」

 彼は言う。
 「料理って不思議なものですね。食べ手のことを考えながら作ると、おいしくなる。自分が食べるものを作るのとは、絶対どこか味が違うんです」

 取材はちょうどお昼時で、「すみませんがおなかすいちゃったんで、めし作っていいですか」と最初に聞かれた。もちろんですと私は答え、撮影を続けた。いつもの連載と違い、トップ写真に人物が写り込んでいるのはそのせいだ。

 一緒にいかがですかと、差し出されたトマトソースパスタがまた、しびれるほどおいしかった。トマトのコクと甘み、アルデンテのゆで具合、爽やかなバジル。隠し味がありそうだ。一体何が入っているのだろう。
 「特別なことはしていません。トマトも缶詰を煮詰めただけだし。あ、にんにくは入ってます。トマトソースのパスタは子どもたちの大好物で、昔からよく作った我が家の味みたいなもの。遊びに来ると、必ず、“パパのあれ作って”って言われるんです。たまに作らないと、味が鈍るので。いつでもおいしいのをチビ達に作れるようにしておかないといけませんから」

 初めて彼は柔らかな笑顔になり、こう続けた。
 「今日は、子どもたちの顔思い出しながら作ってました。誰かを思って料理を作っているときだけ、いろんな事を忘れられるみたいです」

 再び台所に立ち始めて1年足らず。まだまだ苦しみの渦中にいる。どうかするといまも「消えたくなるときがある」。
 無責任なことは言うまい。
 ただ、母の「あったかくて包み込まれるような味」で育った彼なら、食べること、作ること、ふるまうことで自分を立て直すことができるのではないかと思う。だからおいしいバルで、誰かをまた好きになろうと思ったのだし、パパのパスタが食べたいと慕ってくれる子どもたちのために、今日も台所に立つ気持ちになった。
 「おいしい」という感動が、日々のささやかな支えになる。

 消えたいなんて思わないで。あなたの料理は誰かを幸せにする。その幸せが、あなたの心を癒やす。私は全力でいかにパスタがおいしかったか訴えたが、彼に響いているだろうか。あとは恋人に任せるとしよう。

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