(36)犠牲者の名に、そっと手を置く子 永瀬正敏が撮ったグラウンド・ゼロ
国際的俳優で、写真家としても活躍する永瀬正敏さんが、世界各地でカメラに収めた写真の数々を、エピソードとともに紹介する連載です。つづる思いに光る感性は、二つの顔を持ったアーティストならでは。今回はニューヨークのグラウンド・ゼロ。9.11テロで大勢の方が亡くなった場所で、永瀬さんがカメラを向けたのは――。

©Masatoshi Nagase
テロ犠牲者の名前が刻まれたブロンズの板に、少年がそっと手を置いて振り返っている。視線の先にいるのは、母親だろうか。ご遺族なのか、観光客なのか、ここがどんな場所かをどこまで理解しているのかは、聞いていないからわからない。というよりも、それは聞けない。
二十数年ぶりにニューヨークを訪ねたら、世界貿易センターのツインタワーが立っていた場所は、滝のように水が流れ込む人造の池になっていた。ニューヨークに住んでいた時、毎日目にしていた大きなビルがもうないと信じられず、足を向けた。ない、と自分の目で確認した時の気持ちは、ひとことでは言えない。
ツインタワーが崩壊した時、僕がニューヨークでルームシェアをさせていただいた家のある通りが、粉じんまみれでテレビに映し出された。驚いて彼に電話をしたが、通じなかった。連絡がついたのは数日後。彼はたまたまニューヨークにいなかったことがわかった。
犠牲者の名は、池を囲む欄干に刻まれていた。僕のように写真を撮っている人は大勢いたけれど、それぞれ思いを抱えて来られるからだろうか、厳かな雰囲気だった。忘れない、という意味では、人が来たほうがいいのだろう。でもやはり、この場所への思いは、ひとことでは言えない。