浜松に「幸楽」あり! 至福のとんかつ

スリランカと日本を拠点に活躍する写真家の石野明子さんが故郷を撮り歩く連載、「カメラと静岡さとがえり」。第7回は、全国からファンが集う、浜松市の小さなとんかつ店「幸楽」を紹介します。有名グルメ系口コミサイトの全国とんかつランキング上位20位に東京・大阪・名古屋の有名店が名を連ねる中、唯一地方都市から食い込んでいるというこのお店。そのおいしさの秘密を探ってきました。(トップ写真は「幸楽」のヒレカツ)
全国からとんかつラバーたちが、また多くの著名人がお忍びで訪れる、とんかつ玄人を満足させる店がここ浜松にある。グルメ系口コミサイトの全国とんかつランキングで上位20位は軒並み東京・大阪・名古屋のお店ばかり。なのにたった1軒、地方都市・浜松のお店がランクインしている。それがここ「幸楽」だ。

開店前にはお客さんがずらりと並ぶ
人気とはうらはらに店構えはとても簡素。渋く型染めされた暖簾(のれん)をくぐると店内はカウンター8席のみ。店主の稲勝義紀さん(79)は「夫婦2人で最高のものを出すにはこの大きさがちょうどいいのです」と言う。

人が行き交うのがやっとの店内
狭い厨房(ちゅうぼう)で抜群の連携プレーでテキパキと、かつ丁寧に仕事を積み重ねていく。

息のあったお2人の仕事
店主の稲勝さんは戦後、独立できる仕事を模索していた。「とんかつなら肉にパン粉つけて揚げるだけだから簡単だと思ったんだよね。で、作ってみたらまずくて食べられたもんじゃない。それからずっと研究の日々ですよ。何でこんな大変なこと始めちゃったんだろうって参っちゃったよ」と苦笑い。

使い込まれ、稲勝さんの手になじんだ包丁たち
稲勝さんの体は大きく丈夫そうに見えるが、腎臓が弱く、10代の頃から食事制限や食事療法でなんとか健康を保ってきた。添加物や化学調味料を摂取すると体調が悪くなることもあって出来る限り避けてきた。そのおかげで繊細な感覚、敏感な味覚を手に入れたのだという。
「じゃ、ヒレから揚げようか」と冷蔵庫から深紅のヒレ肉を取り出し、包丁を入れていく。幸楽ではヒレもロースも注文が入ってから切り分ける。絶対につくり置きはしない。冷凍もしない。

ロースの竹サイズがこちら
さっと衣をつけられた肉はラードがたゆたう中華鍋の中へ。そういえば揚げ物屋さんなのに油臭さがまったくない。「気づいた? いい油は臭くないんだよ。それにほら、揚げてるのに静かでしょ?」。本当だ! シズル感の代名詞ともいえる油のはねる音がしない。「油は水に触れると音が出る。私が選ぶ豚肉は保水力が高く、水分が外に逃げない。それはうまみも逃げないということ。そして衣の中でしっとりと加熱されます」

質の良いラードで揚げる
稲勝さんが鍋を見つめ、素早く鍋からカツを取り出す。上げるべき時は一瞬なのだそうだ。少し肉を休ませて包丁を入れる。ほんのりピンクで肉汁を纏(まと)った断面が現れる。こんな断面見たことがない。食べてみると軽い衣ながら食感楽しく、ヒレは柔らかくシルキー。歯を入れる瞬間、控えめな、でも良い香りのする肉汁がのどに流れる。幸せ……。

ジワリとにじみでる肉汁、ヒレカツの断面
続いてロース。3種類あり「松」は堂々の300g超え、「竹」は幸楽のメインで240gほど、「梅」は少食なお客様のために、でも180gは超えている。「とんかつはうまい豚のうまい脂を楽しむ料理だから、160gを超えていなくちゃとんかつとは言えません」。赤身と脂身とのバランスが大切なのだそうだ。また冷蔵庫からピンク色の豚肉を取り出し、「竹」の分量を切ってもらう。こちらも静かに揚げられていく。
休ませたあとザクっと包丁を入れていく。その間にも肉の色は変化していき目の前に来たときにはちょうどいい加熱具合になっている。その脂身は甘く濃厚、でもさらりとしている。そして衣、脂身、赤身の食感のコントラストに、かみしめるたび至福を感じる。

ロースカツ「竹」の断面、最初は塩で脂の甘みを楽しんだ
「いい豚肉がなくちゃ私のとんかつは完成しません。それが手に入らない時は店を開けることはできません」と稲勝さんのとんかつにかける思いは実直だ。
「こんな小さなお店にきてもらうんだもの、本当においしくて体にいいものを出さなくちゃ。だからずっととんかつのことを考えています」と人懐っこい笑顔をみせてくれる。
幸楽のとんかつは優しい。ポテトサラダはマヨネーズから手作り、ぬか漬けも毎週精米するお米のぬかを使っている。付け合わせの千切りキャベツはお客がびっくりするほど甘みを持った厳選キャベツを日に2回、大量に手切り。

付け合わせの野菜もこだわりの仕入れ先から
そして稲勝さんのとんかつは食べたあとのお皿に揚げ油は滴らない。残るのは肉から滴った肉汁のみ。いい豚肉を抜群の技術で揚げれば衣から油がにじみでたり、衣がフニャフニャになったり、食べて胃にもたれたりはしないとのこと。

「全てシンプルなのでごまかしがきかない」と稲勝さん
稲勝さんの使う豚は静岡県産の黒豚のバークシャーという種。飼育の手間はかかるが抜群においしいという。
自分のとんかつを完成させるために稲勝さんは豚肉を探し回ったという。採算度外視だったが、満足のいかないものは絶対に出したくなかった。やっとの思いで、探し求める豚肉問屋と出会った。後からわかったのだが、そこは皇室御用達だったそうだ。
手間のかかるバークシャー、頼りにしていた畜産家が廃業することも少なくない。そうした何度かの危機を乗り越えながら最高の豚肉のみを使う幸楽。

揚げる瞬間を見極める
「鹿児島の絶滅の危機にあった黒豚を県が保護したように、私たちも守らなくちゃ」と少し悔しい表情を見せる稲勝さん。
生涯をとんかつに捧げる稲勝さん。この幸楽の技術、宝を失いたくない。どうかこの豚を、日本の誇るとんかつを守ってください。

「幸楽」の味はおふたりで作り上げたもの
「でもね、自分がやれることはおいしいとんかつをとにかく知ってもらうこと。店で最期を迎えるまでやりますよ」とまた笑顔になる稲勝さん。隣で奥さんの佳子さん(71)もうなずきながら笑ってる。しびれた。
幸楽
静岡県浜松市中区肴町317-13
053-452-3754
12:00-14:00、17:00-20:00(売り切れ次第終了)
定休日:月・火(ただし月曜が祝日の場合には火・水)
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