河川と街道の交差点を押さえる、南北朝時代発祥の城 小瀬戸城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、静岡市の小瀬戸城です。前回紹介した駿府城の石垣の故郷、小瀬戸石切場の近くにあり、登ってみると、戦略的な重要性が一目でわかるのです。
(トップ写真は小瀬戸城から見下ろす、藁科川<わらしながわ>と小瀬戸の集落)
【動画】小瀬戸城を訪ねて
一目でわかる立地の良さ
小瀬戸城は、藁科川の南岸、比高約120メートルの山に築かれている城で、南北朝時代(14世紀)の発祥とされる。<駿府城の石垣の故郷 先人の労が刻まれた小瀬戸石切場>で述べた、小瀬戸石切場で見つかった石材が見られる城だ。1971(昭和46)年に本丸に顕彰碑が建立された際、集落の石切場から運んだ石を使ったという。顕彰碑の主碑には矢穴が残り、副碑の台座には刻印が見られる。

主碑に残る矢穴

副碑の台座に残る刻印石
小瀬戸城へは、新東名高速道路沿いの登城口から登っていく。残念ながら、新東名高速道路の建設により山は削られかつての城道は失われてしまった。しかし山頂へ通じる階段を登り切れば、本丸と二の丸、両曲輪を分断する立派な堀切を見ることができる。この階段は、小瀬戸の集落と小瀬戸石切場を俯瞰(ふかん)できるベストスポットでもある。途中で振り返れば、「石切」と「牛込」と呼ばれる場所が見下ろせる。藁科川との距離も、この城の立地のよさもよくわかる。

本丸と二の丸を分断する堀切

小瀬戸城から見下ろす、藁科川と小瀬戸の集落
親王御所の背後を守る詰城の可能性も
小瀬戸城は、駿河国の南朝方、狩野介貞長が安倍城(静岡市)の支城として築いたとされている。『駿河記』によれば、狩野介貞長が興良親王のためにこの場所に御所を造営したという。現在、静岡サービスエリアになっているあたりには「御所谷」という地名が残る。城が静岡サービスエリアを見下ろせる絶好の位置にあることを考えると、御所谷こそが御所が築かれた場所で、小瀬戸城は御所の背後を守る詰城のような存在だったとも考えられそうだ。小瀬戸神社のあたりには、「門内」という地名も残る。藁科川と御所谷の間に門が設けられ、門の御所谷側が門内と呼ばれたという。

左側の平場が静岡サービスエリア。御所谷の地名が残る

中央右側のこんもりとした木のあたりが、門内と呼ばれる門の推定地
城域は多くの曲輪が茶畑になっており、現在は本丸と二の丸、両曲輪を分断する堀切が残る程度だ。しかし、その立地といい、なかなかいい城だ。見逃せないのは、主郭が思いのほか広いこと、堀切が大規模であることだ。南北朝時代の城というより、戦国時代の城の雰囲気がある。
狩野→今川→武田配下の朝比奈氏の城に
小瀬戸城は安倍城と共に落城し、狩野氏も没落したとされている。その後、今川方に接収され、朝比奈氏の支配領域になったようだ。15世紀前半の永享の乱の頃、16世紀前半の今川氏の家督相続を巡る花倉の乱の頃にそれぞれ朝比奈氏が安堵(あんど)されており、それらの内乱期に機能した可能性がある。小瀬戸と飯間の集落には朝比奈氏ゆかりの見性寺などがあることから、朝比奈氏の城として機能したのだろう。
朝比奈氏は早くから武田軍に従属している。となると、1569(永禄12)年の武田信玄による駿河侵攻の際には小瀬戸城も改修された可能性があるだろう。この場所が、東西に走る南藁科街道と、西又峠・野田沢峠を越えて朝比奈氏の本拠地である朝比奈郷(藤枝市岡部)へ通じる道との分岐点にあるのも興味深い。

曲輪を分断する堀切

本丸。藁科川流域を意識した曲輪配置だ
立地と縄張から推察する限り、城は北側の藁科川に対する防備を意識して築かれている。ただ、2020年2月の訪問時は確認できなかったのだが、本丸の南東側に二重の堀切があるというのが気になるところだ。1575(天正3)年以降、徳川家康の侵攻に備えて強化した可能性があるのかもしれない。

主郭からの眺望。駿府城のある静岡市街地がよく見える
(この項おわり。次回は5月25日に掲載予定です)