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日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は島根県浜田市の浜田城です。津和野城と並ぶ石見の拠点ですが、実は、江戸幕府が城の修繕や新築を規制した後に造られています。なぜなのでしょう。
(トップ写真は浜田城に残る石垣)

【動画】浜田城を歩いてみた

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津和野城と並ぶ、石見の石垣づくりの城

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの後は、徳川家康による大名の配置換えが行われ、江戸幕府の支配体制が確立された。大内氏、尼子氏、毛利氏をはじめ石見の豪族たちがしのぎを削った石見の支配体制も、大きく変化。織豊期の石見は毛利氏の支配下で比較的安定していたが、関ケ原の戦い後に毛利氏が転封となったことで、石見東部の石見銀山は幕領になるなど、支配体制が一新された。

同時に、石見の城も変化していく。毛利氏時代の石見は戦いの前線になることがなかったためか、石垣づくりの城がさほど発展していない印象がある。石見で石垣づくりの城といえば津和野城(島根県津和野町)の名が真っ先に挙げられるが、津和野城こそ関ケ原の戦いを機に一新した城の代表例だ。有力豪族・吉見氏の居城だったが、吉見氏が毛利氏に従って津和野を去ると、坂崎氏が入封。大改修を行い、城と城下町の礎を築いた。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

津和野城。坂崎氏、亀井氏が石垣づくりの城へ大改修した

築城は一国一城令の後 長州藩の毛利氏牽制か

津和野城と同じように、関ケ原の戦い後に石見の新たな支配拠点として誕生したのが浜田城(島根県浜田市)だ。1619(元和5)年に5万5千石で初代浜田藩主となった古田重治が、1620(元和6)年から築城した。

注目したいのは築城が、1615(元和元)年の一国一城令や武家諸法度の制定後であることだ。全国の城が激減し、新築はもちろん改修や修繕にまで規制が及んだ1615年以降の新築は、幕府の特例なしではあり得ない。日本海に面し長州に隣接する浜田城は、1620年に築城が開始された福山城(広島県福山市)と同様に、長州藩の毛利氏を山陰側から牽制(けんせい)する城でもあったと考えられる。

浜田城のおもしろいところは、まずその選地(地取り)だ。重治は城地の選定にあたり、益田城(島根県益田市)や鳶巣城(とびのすじょう、島根県浜田市)を検分した上で、現在の亀山を選んだという。その大きな理由に、左右に湊(みなと)があり便利であること、山麓(さんろく)の浜田川(大川)で大小の船の通行が可能であること、東にヨシ沼があることなどを挙げている。軍事面だけではなく、湊や河川交通を重視した経済的な意図があったのだろう。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

松原湾から見た浜田城

城下町の骨組み 堀以外は昔のまま

その立地の特徴は、現地を訪れれば今でも感じ取れる。標高67メートルの亀山に築かれた浜田城は、北東側は松原湾に接し、西側から南側にかけては浜田川が流れている。1668〜86(寛文8〜貞享3)年に描かれた「浜田城下町絵図」を見ると、堀が埋め立てられた東側以外はほぼ変わっておらず、城下町の骨組みはほぼそのままだ。浜田川が南・西側2方向の防御線となり、東側には松浦湾のほか外ノ浦(とのうら)湊があり、西側にも湊があった。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

浜田城の本丸から見下ろす松浦湾

東側は完全に埋め立てられ市街地化されているが、かつてはヨシ沼という沼地があり、そこから内堀と外堀が南北方向に設けられていた。現在の大手通りあたりが内堀跡で、浜田図書館のあたりが大手門跡だ。藩主は内堀に架かる大手橋を渡り、城内に入ったという。夕日ケ丘聖母幼稚園の西側あたりが裏門跡で、その北側一帯にヨシ沼が広がっていた。

大手門を入ると御殿があり、その南側には南御殿が建っていた。御殿の南側にある夕日ヶ丘は城に取り込まれて夕日ノ丸と呼ばれ、山頂や中腹に茶屋があったことが発掘調査で判明している。夕日ヶ丘は標高26メートルほどの丘陵だが、浜田川を挟んで城下を一望できることから、監視の場としての側面を持ち合わせていた可能性がある。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

城の北〜南を蛇行する浜田川(大川)

地形を生かした城下町形成

城下町は、自然地形をうまく活用して形成されていた。浜田川を境にして、城に近い北側に武家屋敷、南側に城下町が配置された。現在国道186号が通る大橋が、城と城下町をつなぐ唯一の橋。浜田郵便局や市役所が建つ周辺には上級家臣、浜田松原郵便局の周辺には中級家臣の屋敷があったとみられる。

浜田城の築城以前にも、浜田川西岸から南岸にかけてのいずれかに、ある程度の湊町があったと推定されている。浜田城下町はこれを東側に拡大してつくられたようで、浜田川左岸には浜田八町(片庭町、紺屋町、新町、蛭子町、門ケ辻町、檜物屋町、辻町、原町)が形成されていた。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

浜田城の東麓

江戸時代の北前船寄港地として知られる外ノ浦は、浜田にあった三つの港(外ノ浦・瀬戸ヶ島・長浜)の一つだ。外ノ浦は西回り航路の風待ち港で、瀬戸内方面と北陸方面への中継点となり、浜田藩最大の貿易港として繁栄していた。深い入り江に沿って船主集落が展開していた、静かな港だ。当時の顧客名簿「諸国御客船帳」には、干鰯や鉄、半紙や焼物などの特産物を販売し、米や塩、砂糖などを購入していたことが記されている。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

風待ち港の外ノ浦

幕末に藩主が城を焼いて退却

1623(元和9)年には、浜田城と城下町は完成したようだ。その後、浜田藩は古田家が2代30年、松平周防守家(前期)が5代110年、本多家が3代10年、松平周防守家(後期)が4代67年、松平右近将監(うこんのじょう)家が4代30年治めた。

松平右近将監家は、3代将軍・家光の孫を祖とする家で、最後の藩主となった松平武聡(たけあきら)は、将軍・徳川慶喜の弟にあたる。そのため、浜田藩は1866(慶応2)年の第二次幕長戦争で大村益次郎率いる長州軍の進攻を受け、領内で戦いが繰り広げられた。最後は浜田城と城下を焼いて美作(みまさか)の飛地領に退却し、鶴田(たづた)藩となって明治維新を迎えている。浜田城内の焔硝蔵(えんしょうぐら)は退却の際に浜田藩により爆破されたとされ、二ノ門からはこのときのものと考えられる焼土層が見つかっている。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

浜田城内の焔硝蔵跡

明治維新後、浜田城は1873(明治6)年の廃城令で存城となり陸軍省の管轄となった。現在、登城口である護国神社脇にある門は、1870(明治3)年に浜田県が設置された際、県庁舎の門として津和野藩庁の門を移築したものだ。浜田県が島根県になってからも県の施設に活用され、現在の浜田合同庁舎が移転するまで使用された。1967(昭和42)年に島根県から浜田市に譲渡され、現在の場所に移設されている。

日本海を望む、津和野城と並ぶ石見の拠点 浜田城(1)

浜田城内に移築されている、津和野藩庁の門

(つづく。次回は8月24日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■浜田城
http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1001000002482/index.html(浜田市)

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