東京の台所2
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〈214〉彼の料理と“まね”で、心の病を治した彼女の話

〈住人プロフィール〉
会社員・42歳(女性)
分譲マンション・3LDK・地下鉄日比谷線 人形町駅
入居9年・築年数9年
夫(47歳・会社員)との2人暮らし

「食べることに興味を持てなかった」

 「食事は頑張らなきゃいけないときの邪魔になるもの、生命維持のために摂取するというイメージでした。仕事がいちばん大切で、食事の優先順位は強烈に低かった。学生の頃から基本カロリーメイト。社会人になってからは食べる時間がもったいないので、車の助手席にまとめ買いしたロールパンを置いて、運転しながらつまむような生活でした。食べないなら食べないでかまわなかったのです」

 彼女は、心身のバランスを崩した30代までをこう振り返る。食べることに興味が持てない。グルメ漫画や番組がはやっていても、「みんな好きなんだろうな」とは思うが、食に執着がないので共感ができない。

 やりがいのあるハードな職場で、自宅でも就寝時間を削って持ち帰った仕事をこなす。やってもやっても自分の望むレベルにたどり着かない強迫観念のようなものがあった。いきおい、食事どころか生活すべてが後回しに。

 しかし、不調は働きすぎだけが原因ではないと、カウンセリングに通ってから気づいたという。
 「不安が強く、勉強以外に自分の存在意義を感じられなかったうえに完璧主義でした。テストで90点だとすると、100点をとれない自分に耐えられないというか……。怖いのです。そんな悩みは誰とも共有できない。無邪気に親が“すごいね”と喜んでいるのを見ると“苦しい”と言えなかった。家でもどこでも孤独で、ことごとく発想がネガティブだったことが要因です」

 両親も、愛情が強いあまり何をするにも心配や不安が先に立ち、雨が降ると、何度も「転ばないでね」と念を押すような気質だった。失敗をしないよう心配しあい、お互いにとても気を使いながら暮らしてきた。

 実家が生きづらかったと気づいたのは、社会人になってからだ。
 就職してまもなく職場で夫と出会い、交際。初めて彼の家を訪ねたときのこと。

 「彼の母が朗らかで太陽みたいな人だったんです。彼が子どものころ成績が悪くて先生になにか言われても、義母は“この子ならきっとやれます”と言い返したと。理由は“だって私の子だもの”。いつも鼻歌を歌っていて、初めて会ったときは、“まー、こんなほっそい人が来て!”といわれました。うちの家族なら、傷つくかもと変に気を使って絶対言わないなあと。こんな家族がいるんだなーってカルチャーショックでした」

 28歳で結婚。互いに転勤が続き、4年間、別居生活をした。32歳で、ようやくふたりの東京転勤が叶(かな)い、同居を果たした。
 ところがその矢先、彼女は上司のパワハラをきっかけに、心身のバランスを崩して休職した。

 相変わらず食に興味がない彼女に、彼はせっせと料理を作り、「ごはんだけでも食べたほうがいいよ」「みそ汁作っといたから」「冷蔵庫に煮物あるよ」と言って出勤。
 彼は、無類の食いしん坊で料理好きだった。起きる気力もない彼女はいらつき、心のなかで毒づいた。「そういうの、いらんねん」

 「実はそれまでも一度、調子を崩したことがありまして。私みたいな病だと、感情が激しく上下して、浮き沈みが激しいから家族を振り回してしまいがちなんです。でも彼はなにがあっても、“なんとかなるんちゃう?”という人。この安定感は、今思うとありがたかった」

 つらすぎて当時の記憶があいまいだと語る彼女が、今でもはっきり覚えている夫の言葉は、「俺はごはんを作ることしかできんから」。

〈214〉彼の料理と“まね”で、心の病を治した彼女の話

料理写真をつまみに酒を飲む男

 同じ会社でもシフトが異なるため、夕食をともにできるのは週に2、3度である。その前日、彼は必ず楽しそうに聞いてきた。
 「明日、なに食べたい?」

 長く知っているつもりでいたが、初めて住まいをひとつにした生活は、発見と驚きの連続だった。
 「私はひとり暮らしのとき、明日なにを食べようなんて、考えたことがなかったんです。彼は旅行でなにを食べるか行く前から調べてるし、外食でおいしかったものの写真を見ながら家でお酒を飲んでる。お気に入りの料理番組は毎日録画して、“もっとおいしく作るには”と、しょっちゅうレシピのことを考えています。おなかがすいたらいらいらするし、私のDNAにはないものを持っている人なんだなとあらためてわかりました」

 同居1年目。
 「誕生日に何食べたい?」と聞かれたので、なんとなく「ハンバーグ」と答えた。
 当日、彼は牛コマ肉を買ってきて、叩(たた)いてミンチにするところから始めた。

 「え、そこから?と。びっくりするほど手間をかけて、工夫をこらして2、3時間かけて作ってくれた。おいしい!って、心の底から声が出ました」

 誕生日のハンバーグや彼の料理熱を会社で話すと、「食べたい」と同僚に言われ、ぽつぽつと人を招くようになった。

 苦しかった10年前の日々を振り返った今、実感するのは。
 「この取材で、いろいろ振り返って初めて気付きました。そういえば最近は“おいしい!”とか“あれ食べたい”とかよく言うけど、昔は言っていなかったよなと」

 同居3年後に人形町にマンションを購入。日本橋に近く、デパートや物産館で良質な食材や調味料、良い道具がそろう。彼はネットや雑誌で情報収集をしては、「あれこれ妄想」。満を持して、地域限定の醤油(しょうゆ)やら包丁やらを、休日に日本橋で買い求める。
 ネットショッピングでは餃子(ギョーザ)鍋、おでん鍋、料理家が開発した天ぷら鍋などを次々と。
 鍋はざっと数えただけで16個あったが、台所以外にもしまってあるらしい。

 同居11年目。現在は道具購入を合議制にしていると笑う彼女は、穏やかな口調で振り返る。
 「好きな食べ物は何かを考え、明日のごはんを楽しみにする。そうやって彼のごはんで少しずつ自分の身体性を取り戻し、私は人らしくなっていったんだと思います」

 彼と暮らしながら得たものは、ほかにもある。

 「同居後に休職をしていたときも、せっせとごはんをつくっているのを見て“そんなことより話を聞いて欲しいんだけどなー”とよく思いました。でも、一緒に暮らす中でひょっとしたらこの人のまねをすれば楽になるかな、そんないらいらも消えるかなと思い始めたのです」

 ちゃんと体をいたわる。好きなものを大切にする。よく笑い、よく食べる。どれも満足にできていなかった。それは、自分を大切にしていなかったからだとまねをしながら、徐々に悟る。
 「つくり笑顔をしていたらちゃんと笑えるようになった、みたいな感じで、彼のまねをしていたら、余分な力が抜け、少しずつ板についてきたといいますか……。今もまねをしている最中です」

〈214〉彼の料理と“まね”で、心の病を治した彼女の話

楽しいのれん

 カウンセリングに通わなくなって5年。社内でも彼の手料理は評判になり、毎月来客が絶えない。彼女の弁当と、在宅時の夕食はすべて彼の担当だ。

 凝り性で料理がおいしいからという理由だけで、感謝が生まれるのではないだろうことは、彼女のこんな言葉からもわかる。
 「ごはんを囲んで、おいしいね、楽しいね、あれむかついたよね、しんどかったねと言う相手がいるから、私みたいに生きるのが下手くそな人間でも生きていける。なんとかやっていけるんですよね」

 呼応するように、かたわらの彼が最後につぶやいた。
 「僕は、ひとりならペヤングの焼きそばでいいんです。一生懸命作っても、ひとりで食べるのは虚(むな)しいしばからしい気持ちになる。ひとり暮らしのとき、どうしても食べたくてしゃぶしゃぶを作ったんですけど、なにひとりで肉ゆすいでるんだろうって、全然おいしく思えなかった。うまそうに食べてくれる人がいるから作るんです」

 彼女は彼の料理に救われたけれど、彼もまた彼女に支えられている。

 合羽(かっぱ)橋でふたりで衝動買いしたという「ちょっと一ぱい」と書かれた藍染めののれんが、台所に掛かっていた。その書体がいかにも楽しげで、今も私のまぶたの裏にあたたかく刻まれている。

〈214〉彼の料理と“まね”で、心の病を治した彼女の話

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