美しきインドの日常
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失われゆく、インド北部の辺境・スピティ谷の素朴な暮らし<12>

スピティ谷はインド北部ヒマチャルプラデシュ州にある渓谷で、チベット仏教を信仰する人々が暮らす辺境の土地だ。このスピティ谷のシンボルとも言えるのが、標高3900mに位置する孤高の僧院・キーゴンパである。

失われゆく、インド北部の辺境・スピティ谷の素朴な暮らし<12>

スピティ谷の象徴キーゴンパは標高3900mに位置する孤高の僧院だ(撮影:三井昌志)

スピティ谷を見下ろす高台に建てられたキーゴンパの存在感は、圧倒的だった。山の頂に残る万年雪と空に浮かぶ白い雲は、荒々しい山肌と見事なコントラストを成し、お互いを引き立て合っていた。

何よりも心惹(ひ)かれたのは、キーゴンパの上空に広がる空の色だった。標高3900mから見上げる青空は、ただ澄み切っているだけでなく、青よりも黒に近い色合いなのだ。それは宇宙の広がりが間近に感じられるような現実離れした光景だった。

キーゴンパからさらに山道をバイクで登った先には、赤い草原があった。標高4700mという高地でも育つ植物が紅葉し、それが雲間から差し込む強い日差しを受けて、一斉に光り輝いていたのだ。まぶしいほどの光が赤い草原を照らし出す様は、この世のものとは思えないほど神々しかった。

失われゆく、インド北部の辺境・スピティ谷の素朴な暮らし<12>

標高4700mという高地でも育つ植物が光を浴びて一斉に輝いていた(撮影:三井昌志)

乗っていたバイクのエンジンを止めると、あたりは完全な静寂に包まれた。この山道を通る車はほとんどなく、見渡す限り集落もない。動物の気配すらまったくないのだ。

まるで地球が動きを止めてしまったような静寂の中、僕は誰のものでもない赤い草原に立ち、一人きりでこの美しさに浸っていた。それはこの上なくぜいたくな時間だった。

スピティ谷のラルン村では、大麦の収穫作業が行われていた。女たちは手慣れた様子で麦穂を鎌で刈っていた。刈り取った麦穂は畑の上に広げて、数日間天日で乾燥させたあと、家畜や人の力で脱穀するという。

失われゆく、インド北部の辺境・スピティ谷の素朴な暮らし<12>

スピティ谷のラルン村で大麦の収穫を行う女性(撮影:三井昌志)

女たちは仕事の合間に木陰でお弁当を広げると、僕にも「一緒に食べなよ」と声を掛けてくれた。昼食は質素なものだった。主食は無発酵パンのチャパティと、ツァンパという大麦焦がし粉を練ったもの。それに塩やトウガラシをつけて食べるのだ。魔法瓶には塩とバター入りの紅茶が入っていて、それを何杯も飲むのだった。

「村の生活もずいぶん楽になりましたよ」

ロブサンという男がバター茶を飲みながら言った。

「少し前までは村に電気も来ていなかったし、車が通れるような道路もなかったんです。町へ行くために何時間も歩くのが当たり前だったし、冬になると完全に雪に閉ざされていた。まぁ今でもインターネットは通じませんけどね。それもあと何年かしたら変わると思いますよ」

インド政府は辺境地域のインフラ整備に特に力を入れている。新しい道路を作り、送電線を引き、インターネット環境を急ピッチで整えているのだ。開発によって、村の生活は便利になり、観光客も増えて、経済的にも豊かになるだろう。

そしていつか必ず、スピティ谷が「辺境」と呼ばれなくなる日が来るはずだ。遠隔地のインフラ整備は、インド国内だけでなく、隣国のネパールやミャンマーでも同じように進行しているからだ。誰よりも住民がそれを強く望んでいる以上、この世界的な流れは決して止まらないだろう。

独自の文化と生活様式を持ち、長年にわたってそれを維持してきた辺境の人々。その素朴な暮らしぶりを間近で見られるのは、今だけなのかもしれない。そう思うと、目の前の光景がさらにいとおしく感じられた。

    ◇

インドに魅せられ、バイクで8周してきた写真家の三井昌志さんが、文と写真でつづる連載コラム「美しきインドの日常」。隔週木曜更新です。

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>>「会社を辞めて10カ月旅に出てみたら、人生が変わった」——三井昌志さんインタビュー

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