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東京の台所2
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〈227〉家族も自分も納得できる働き方を。母の尽きぬ挑戦

〈住人プロフィール〉
菓子店経営、チーズ研究家・45歳(女性)
分譲マンション・3LDK・有楽町線 豊洲駅
入居18年・築年数18年
夫(47歳・会社員)、長男(12歳)、長女(8歳)、次女(6歳)との5人暮らし

    ◇

 小学生の頃、料理クラブに入っていた。母の作る料理や、台所から立ち上る匂いから今日は何かなと想像するのが好きだった。母は副菜を何種類も作り、夕食は必ずみながそろうのを待ち、家庭での食を大事にした。
 料理好きの母を持つ子に案外よくあるケースだが、彼女も、台所に立ちたいのになかなか手伝わせてもらえなかったらしい。

 「チーズを研究したり、チーズケーキを販売するいまの私の仕事は、無意識に母の領域とかぶらない料理の道を選んでいるのかもしれませんね」

 大学では食物学を学んだが、卒業時は就職氷河期。親の希望もあり、大手建設会社に就職した。
 座りっぱなしの仕事は苦痛で、毎日退社後に菓子教室やフランス料理教室、フランス語学校に通うのが楽しみになった。

 「学生時代からフランスへの憧れが強く、フランス語を数年習っていました。社会人になるとワインブームで自分もハマり、そこから自然にチーズに興味を持ちました。チーズは日本の食卓ではまだまだなじみが薄く、ほんの一部の種類しか知られていませんが、フランスでは、“漬物”みたいな存在。地域や作り手によって香りも味わいもみんな違う、知れば知るほど奥の深い食文化だなと熱中しました」

 チーズ屋の片隅に貼られていたチラシを見て、今度はチーズ専門学校の入門コースへ。さらに夢中になりアドバンス、マスターと2年通った。

 「いつかフランスに行きたいとぼんやりした夢はありましたが、行って何をするか具体的な目的もないですし、目の前には仕事がある。そこは気持ちを切り替えて定年まで頑張ろうと、チーズやフランス語は趣味として、会社の仕事に打ち込みました」

新婚で単身渡仏

 27歳で2歳上の男性と結婚。定年まで働くつもりで思い切ってマンションを購入。バリバリ働く……つもりだったが、人生の航路は少しずつそれていく。

 「当時は、女性が頑張ってもいいポストにつけないということがわかってきて。なによりバリバリやっていると、家のことがあまりできず自分にとってはストレスでした」

 働きながらも、夜はおいしいものを作りたかった。大皿一品ドーンではなく、主菜、副菜、汁物がにぎやかに並んだ、母のようなあの食卓を。

 29歳。胃腸を壊し、体調が大きく乱れた。

 会社を辞めよう。
 自分に踏ん切りがついた。
 じゃあ辞めてどうする? 長い間夢見ていたフランスに行きたい。行って何を学ぶ? 自問自答をする。
 「語学留学やパティシエという年齢でもない。じゃあチーズは?と。もっと深くチーズを探求したいですし、この多様なおいしさをもっと日本の人に広めたいと強く思いました」

 早速、フランスのワーキングホリデーに論文を書いて応募。新婚2年目の夫には、「フランスに留学しようと思ってる。論文が受かったら行っていい?」と尋ねた。
 夫はゆっくり言葉を選びながら答えた。
 「やりたいことはやったほうがいいよ。きっといい経験になると思う」
 後から聞くと、受かるとは思っていなかったらしい。

 かくして自分のやりたいチーズが盛んなアルプス地方の村へ。ホームステイをしながらチーズ工房やチーズショップで働き、最後においしいチーズを求めてフランス国内とヨーロッパ諸国をひとまわりした。

 1年間どっぷりフランスとチーズにひたり、帰国。まず、知り合いや元同僚を招いてチーズ講座を開いた。

 「ところが最後はただの飲み会になってしまって(笑)。ストンとこないんですよね」
 そのとき同僚らとの会話の中に登場した「チーズケーキ」という言葉にピンときた。
 「日本人にとってのチーズといえば、チーズケーキなんだなと。フランスは、ふだんからチーズを食べるのでわざわざケーキにしません。ならば日本でほかにない、人がうなるような感動的なものを作ったら、チーズにも興味を持ってもらえるのではと思いつきました」

 一心不乱、試行錯誤の末に生まれたのは、ブルーチーズのチーズケーキだ。独特の癖で好みがわかれるブルーチーズを、誰もが虜(とりこ)になる濃厚な味わいに仕上げた。するとたちまち口コミで広まってゆき、あちこちからオーダーが入るようになった。思い切って工房を構え、衛生許可を取り、個人事業主として登録。著名なクラフトイベントに出店すると、さらに大きな話題に。
 その忙しい真っただ中、32歳で出産。またしても予想もしていなかった方向に人生の船が進む。

〈227〉家族も自分も納得できる働き方を。母の尽きぬ挑戦

働き方を変える

 「生後5カ月の子を抱えながら知り合いの個展にデリバリーしたときに、もう預けないとだめだと限界を感じました。きちんと保育園に入れて、必要であれば人を雇ってやっていかねば、と覚悟を決めたのです」

 4年後に長女が、その2年後に次女が生まれる。ケーキの取引先は百貨店にまで及び、通販とイベントを軸に販売する現在の形に落ち着くまでは、育児と仕事の両立をめざし、トライアンドエラーの日々が続いた。

 「数年かけて、製造、宅配をアウトソーシングして仕事を分配していきました。今でも大変なことはたくさんあるけれど、子どもと過ごす時間や一緒にご飯を楽しむ時間が確保できるからいい。コロナ禍で在宅勤務になった今は夫も夕食を囲めるから快適。ずっとリモートでもいいと思うくらいです」

 彼女にとって食事を作ること、みんなでゆっくり卓を囲む時間は、自分と家族全員の平静を保つ、大切な鍵になっている。

 「自分もそうやって育ったので。私自身、一食に肉と魚が両方ないと嫌でして。副菜も必ず数品はほしい。たとえば“おさしみ、肉と野菜の炒めもの、おひたしや煮物の常備菜、みそ汁とごはん”というように。夕食においしいものを作ろうと思うと1時間はかかります。だから仕事をアウトソーシングすることで、その時間を確保できることはとても重要でした」

 じつは長男は重度の食物アレルギーがあり、給食は弁当を持参。食事に工夫が必要だ。彼は、いつも空の弁当箱を母に渡すときに、必ず“ごちそうさま、ありがとう”と言い添えるらしい。
 「夕食時、家族でときには図鑑を開いて食材の歴史や環境や生産者にまで話が及ぶことがよくあります。そんな体験から、料理人や生産者への感謝の気持ちが育ち、ありがとうやいただきます、ごちそうさまという言葉がでているとしたらうれしいなと思います」
 大切にしてきた時間が育んだものは尊い。

〈227〉家族も自分も納得できる働き方を。母の尽きぬ挑戦

最新の家族の掟(おきて)!?

 台所脇の廊下にホワイトボードがある。
 「ぶっかけ」は長男の字。「シチュー」「グラタン」は長女。
 食べたいものを家族がそれぞれ書き込めるようになっている。

 「これがあると、こちらも献立を立てるのに楽なのです」
 希望がかなった子どもはさぞうれしかろう。

 ダイニングには、夫の趣味という真空管アンプとレコードプレーヤーがあった。
 「彼が夕食用にその日に合うレコードをセレクトするんです」

 仕事が立て込んで外の打ち合わせが増えたときは、子どもたちに聞いた。
 「何時にここにいてほしい?」
 「いてくれたほうがいいけれど、留守番でもがんばれるよ」
 がんばれる、という言葉から子どもながらの小さな無理を感じた彼女は、さらに問いかける。
 「毎日でもいい? 週に1~2回?」
 「毎日いないのは嫌だなあ」

 前述の仕事分業化を決めた転機も、子どもに話した。
 「ママはケーキの仕事を自分だけではなくて、いろんな人に協力してもらうことにしたんだ」
 「へぇ、おもしろいね。いいね」

 彼女は述懐する。
 「子どもとの会話には、にごりがなくて、気持ちがスッと整理されるようなところがあります」
 ときには奇想天外なアドバイスをされ、自分の発想の硬さに気づかされることもあるという。

 長男の食物アレルギー療法も含め、夫と相談しながら一つ一つクリアしてきた。
 創業時はあまり前例のなかったチーズケーキの通販専門店という仕事と育児の両立について、彼女はこう語る。
 「家族みんなで着地点を見つけていった、という感じです」

 まだまだ仕事のために家庭を犠牲にせざるをえない父や母は多い。両方快適に、家族のだれもが幸福に過ごすのはかんたんではないし、職種や環境によって、やりくりしたくてもできない人は多かろう。
 だが答えを、働く母ひとりでなく、家族みんなで探していくスタイルを基本形にしてしまうと、人生はもっと楽しそうだと思える。

 自分の大事にしたい軸は、なにか。
 彼女の場合は「おいしい夕食」だった。音楽が流れ、家族の誰かのリクエストが皿にのった夕餉(ゆうげ)の時間を確保するまでに、長い時間がかかったが、なに一つ無駄ではなかったろう。
 声を聞き、相手の心に耳を澄ます。その時間の積み重ねが、家族をつくる。

 ダイニングの壁に『食事中の放屁を禁ず』という長男手書きの貼り紙があった。リモートワークが増えて、家族で長く家で過ごすことが増え、気になった模様。当初は「食事中の」という添え書きはなかった。

 しかし、24時間我慢するのは無理がある。
 ならば「食事中」だけは禁止にしようということで、5人意見が一致したという。
 食事をこれだけ大事にしている家族だ。当然の決定である。

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