坂手洋二の「世界は劇場」
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たった一人の観客でも、世界は成立する 「双方向」「複製不能」こそ演劇の本質だ

日本演出者協会は毎年3月、東京・下北沢の「劇」小劇場で〈若手演出家コンクール〉最終審査会を行うのが恒例になっている。今年で20回目の開催となる。

最終候補に残った4人の「若手演出家」の作品を二度上演するのだが、今年は3月2日から 5日までの期間、一般公開公演を行い、6・7日に審査員・関係者のみの上演を行った。一般公開の公演タイムスケジュールは、緊急事態宣言に合わせて例年よりも繰り上がり、夜六時開演となった。ライブ配信はありだが、最後の2日間は無観客開催である。最優秀賞が決定する最終日の公開審査会も、ネット上のみでの「公開」となった。

たった一人の観客でも、世界は成立する 「双方向」「複製不能」こそ演劇の本質だ

〈若手演出家コンクール〉最終審査会の後の表彰式の様子=3月7 日、東京・下北沢の「劇」小劇場で(提供 : 日本演出者協会)

去る1月7日、菅首相は緊急事態宣言を発出した。

当初は、飲食についての制限が中心ということだった。営業は20時までという要請である。昨年出された最初の緊急事態宣言とは違い、「劇場は閉鎖しない」と聞いたので、劇場は通常営業が出来るのだろうと思っていた。

ところが、映画館関係者の多くが、既にいち早く20時に終映できるようタイムテーブルの修正にとりかかっていると知った。宣言発出前々日の1月5日夜、映画のミニシアター、音楽のライブハウスの人達と連動した文化芸術への緊急支援を求める運動〈We Need Culture〉の緊急会議で渋谷に集まった際である。映画関係者の判断が勇み足のように思えたが、結局、演劇公演についても、客席の50%使用という制限に加え、終演時間を20時以前とするという働きかけがなされた。

昼働いている人たちの観劇機会を奪ってしまう

夜間外出の何が悪いのか。20時という区切りに意味があるのか。コロナウイルスが夜になると感染力が高まるというはずもない。西村経済再生相は「昼の会食」の自粛も求めていたが、それでは飲食店はいったいいつ営業すればいいというのだろう。

強制とは言われていない。しかし、新規で開催時間を決めるときには、国の決定に従うべきだという心理が働いてしまう。

もちろん、抵抗する人たちもいた。私は燐光群の2月公演『草の家』で、土・日・祝日はどのみち夜に出歩く人が減ると見込んで開演を早めた場合もあるが、平日夜は7時開演を死守した。定時で働く仕事帰りの観客の鑑賞機会が奪われてはならないと考えたのである。

たった一人の観客でも、世界は成立する 「双方向」「複製不能」こそ演劇の本質だ

平日は銀行員らが行き交うロンドンの金融街シティーの中心部も、ロックダウンで人影はまばらだ2月5日、和気真也撮影

コロナ禍の下、ロックダウン(都市封鎖)は世界各地で継続中であるから仕方ないとも思うが、時おり「お客様の安全を考えて中止することにしました」という物言いを聞くと、私たちが誰かを危険にさらしているのかと思わされてしまう。

昨年2月の実質的なイベント自粛要請以降、換気・消毒処理等の徹底により、「きちんと感染対策を取った場合には劇場内での感染は確認されていない」というのが、私たちの認識である。演劇周辺では「密」な稽古場や物販会場、楽屋面会等での感染が取り沙汰されるが、それは感染予防のルールを逸脱したケースである。多くの関係者は、努力を怠らない限り、劇場の舞台・客席では、感染は起こらないと考えている。

オンラインコミュニケーションの不全性

上演に代わる作品提供手段としての「映像配信」も、いっときほどの勢いはないようだ。だが、私たちのように上演作品の配信に乗り出さない層も、日常業務の中では、いつしかリモートの利用に、どっぷり浸かっている。

昨年暮れの〈劇作家協会新人戯曲賞〉公開審査会では、審査員それぞれも独自に個々のデバイスに向かって、一堂に会することなく、審査をした。

それぞれが別な場所でZoomを通してする審査は、臨場感もなく、審査員どうしの直接的なやりとりが乏しくなり、それぞれが持論を言うことのみが多くなってしまうきらいがある。

とはいえ、対面式を選んだ〈若手演出家コンクール〉の場合も、関係者だけで一般のお客が入らないと、客席の半分以上は空いていることになり、一抹のさみしさがある。

からっぽの客席といえば、その前週、他に誰もいない2階客席から一人で舞台を観る経験をした。徳島県高等学校演劇研究大会(高校総合文化祭の演劇部門)の審査員として、徳島へ赴いたときである。事前にPCR検査を受けることを義務づけられた。

当日は、2階まるごとが貸し切り状態。ゲスト審査員は私一人なのである。徳島県の高校演劇は他の県と違っていて、講師特別賞、演出賞、舞台美術賞、演技賞、創作脚本賞など各賞を、ゲスト審査員一人が選ぶのである。一人しかいない気安さ、立ち上がったり位置を変えたりして観ることも出来る。それは贅沢である。と、考えることにした。

たった一人の観客でも、世界は成立する 「双方向」「複製不能」こそ演劇の本質だ

徳島県高等学校演劇研究大会で、 徳島市立高校と徳島県立城東高校が上演した「ブレーメン」=2月23日(提供 : 徳島県高等学校演劇協議会)

会場2階のロビー・廊下もゾーニング措置をとられ(もちろん「隔離」とは呼ばない)、控室から2階客席への動線は、私専用となっている。感染者の多い東京から来た者は、警戒されて当然なのである。会場や時期の変更も含め、県の方針と現場の先生方がギリギリのところで折衝(せっしょう)された結果であった。

10代の批判精神が結実した高校演劇

こんな時代状況でも10代後半の演劇部員たちは、溌剌(はつらつ)として上演に取り組んでいて、頼もしい。 そして徳島の高校演劇界はステージングにこだわり、柔軟かつアナーキーな作品づくりをしてきた、独自の歴史がある。

20年前、私が初めて高校演劇四国地区大会に審査委員長として参加したとき選んだのは、徳島県立阿南養護学校ひわさ分校(現・支援学校)の『まじめにヤレ』だった。「終戦の詔勅」「日本国憲法」などのテキスト構成、万国旗・大漁旗を吊り、「制度」を象徴する巨大な標識の装置などが、アンディ・ウォーホルばりのすぐれた現代芸術のインスタレーションとして見えた。その複数の標識の装置は、本番中に生徒たちとコミュニケーションを取る指導の先生方が身を隠す場所でもあった。翌年夏、この作品は全国大会に出場し、養護学校の参加が話題になったが、関わった生徒さんたちの大半が卒業してしまったため、かなり内容の変更を余儀なくされたと聞いている。反骨精神溢れるこの作品の構成を担当したのが、当時同校演劇部顧問だった紋田正博氏であり、徳島の高校演劇には、そうした制度批判の精神が受け継がれている。

さて、そうして「無観客」という言葉に驚かなくなっている私たちの業界ではあるのだが、さすがに初めて「オリンピックを無観客で」と聞いたときは、びっくりした。

観客数を制限してまで開くイベントの意味は

時事通信によると、自民党の下村博文・政調会長は3月4日、東京五輪・パラリンピックの開催の可否について「主力国の選手が大量に来られない場合は国際オリンピック委員会(IOC)も考えざるを得ないだろう」と述べ、五輪関係者としては初めて中止の可能性に言及した。今でも参加するために練習を重ねている選手たちの気持ちを考えると複雑だが、世界の有力選手がきちんとそろわない中での大会は、イレギュラーであると考えざるを得ないだろう。

たった一人の観客でも、世界は成立する 「双方向」「複製不能」こそ演劇の本質だ

消灯した五輪マークのオブジェ。東京都の飲食店などへの営業時間の時短要請に合わせ、レインボーブリッジ(後方)とともに午後8時に明かりが消えている=1月23日午後8時、東京都港区のお台場海浜公園、内田光撮影

それでも中止を避けるためには、感染対策として「無観客」あるいは「観客の制限」という選択肢が出てくる。そして3月9日、報道各社から、日本のオリンピック組織委員会が海外からの一般客の受け入れを見送る方針を固めたという記事が出た。論調としては、コロナ感染に対する日本世論の不安を言い訳にしようということのように受け取れる。

辞退者続出の中、「聖火リレー」開始が予定されている3月25日までに、海外からの観客受け入れについて確定する計画だという。現在開催されている各種のスポーツ世界大会の様子などを見て、選手だけを対象とした感染対策なら、管理を徹底できると踏んでいるのかもしれない。

しかし、日本の観客だけが観ている、という状況はどうなのだろう。「開催した」という既成事実を残し、全世界への放映料が確保できれば、それでいいということなのかもしれない。観客からの収入は激減するが、そこは国に補填(ほてん)してもらえると踏んでいるのだろう。

しかし、そもそもこの国は、オリンピックを行える状況にあるのだろうか。

「復興五輪」という言葉のむなしさ

徳島に行く前、私は福島へ行った。郡山在住の演劇人・佐藤茂紀さんと流山児祥氏が企画し、福島の演劇人たちが三年越しで育んできた新進育成プロジェクト・『鼬』(いたち)を観るためである。

直前の2月13日23時7分頃、宮城県と福島県で最大震度6強を観測した「福島県沖地震」が起きた。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の余震と推定されている。

『鼬』の上演を予定していた公共劇場は、震災の被害で使用できなくなった。そう決まったその日、グランシア須賀川という結婚式場が善意で上演場所を提供してくれることになり、急遽会場変更しての決行となった。多くの人たちに支えられ苦難を乗り越えたのだ。観客、スタッフ・出演者、会場でどの顔を見ても、みんな明るい。

そうした人の輪によって成り立つ出来事に比べて、経済優先である「復興五輪」というお題目は、ただただ虚しく響く。

たった一人の観客でも、世界は成立する 「双方向」「複製不能」こそ演劇の本質だ

IOC総会で東京五輪誘致をアピールする際、安倍晋三前首相は、福島の原発事故の状況を「アンダーコントロール」と発言した=2013年9月7日、ブエノスアイレス

汚染水の海洋放出、汚染水貯蔵場所確保の限界等に加え、何より原発事故収束の見込みがまったく立てられずにいることが、深刻だ。原発事故が「コントロールされている」という五輪誘致のための安倍前首相の虚偽発言は、未来の人たちへの裏切りである。

観客との繫がり、共有こそが演劇

演劇には、観客が必要である。双方向の表現である。観客がいない限り、それは上演に向けた「稽古」「準備」でしかない。狭義の「演劇」は、複製不能でなければならない。収録、撮影されたものは、「別な表現」である。

緊急事態宣言による制限で集客が半分に抑えられても、観客がいることの充実は、ある。

〈若手演出家コンクール〉最終候補者たちの作品は、多かれ少なかれ、現在のコロナ禍下の状況を反映していた。福島への思いを込めた古典の見直し。コロナ禍に包囲され抜け出せない状況を「霧=ミスト」として象徴的に描いた作品。昭和の「事件」史から現在への変遷を震災の記憶に繋げる試み、等々。

観客と共有できるものがある限り、人と人との繫(つな)がりの中に、まだまだ可能性はあると思うのだ。

1月5日深夜、〈We Need Culture〉の会合を終えて自転車で帰宅する途中、渋谷近くの大きめの街道でもほとんどクルマが通っておらず、東京の街が無人になったような錯覚を持った。零時を回っていたからかもしれないが、SF映画のようだった。

不謹慎かもしれないが、この状況を楽しもう。この黒々とした空虚な空間のあり方が、終末感ではなく、何かの始まりであるかのように考えたい、という思いがよぎった。自分がたった一人の観客でも、世界という劇場は、成立する。人間の想像力は、まだまだ信じられる。

(TOP画像=2月5~18日に東京・下北沢で上演された燐光群の舞台『草の家』より/撮影・姫田蘭)

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