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東京の台所2
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〈228〉ユーラシアの旅で食卓と暮らし方が一変

〈住人プロフィール〉
漫画家・36歳(女性)
賃貸マンション・2LDK・山手線 駒込駅
入居1年・築年数40年
夫(38歳・会社員)、長男(5歳)、長女(2歳)との4人暮らし

    ◇

 手作りのピロシキの味見をしたら止まらなくなり、最後は「少し分けてもらっていいですか」と催促をした。ふだんからずうずうしいが、これほどあさましく取材で請うたのは初めてである。
 それくらい旨(うま)かった。

 きのこと玉ねぎをサワークリームで煮込んだクリーミーな具と、甘酢っぱい煮リンゴの具の2種。生クリームとヨーグルトを発酵させたサワークリームも自家製だ。ボルシチに欠かせないので毎週ヨーグルトメーカーで作るという。

 生地はもっちりしたやわらかさで、ほんのり甘い。
 ひき肉入りの揚げたピロシキしか知らない私には驚きの食感だった。

 「ロシアでは揚げずに焼くピロシキが主流みたいです。我が家ではおもてなしによく焼きます。ボルシチは2、3日に1回作って毎朝食べます。おやつ用のミルクパンは30個を週に2回焼く。子どもたちは一度に3個くらい食べるのですぐなくなるんですよね」

 こぶりなミルクパンもふわふわで、何も付けなくても優しい甘さが癖になる。こちらも試食。嫌いな子どもはいないだろうという味わいだった。

 シベリア鉄道やシルクロード、北欧の食や旅をテーマに描いた漫画作品を出版している。子どもは2歳と5歳。どちらも、幼い頃からインドやバングラデシュで学んだカレーやボルシチを食べさせてきた。

 「育児書には、乳児にカレーを食べさせてはいけないと書いてあるけれど、インドでは赤ちゃんも食べていたなあと。カレーというと和食とは別の世界のようだけど、スパイスを使うかしょうゆを使うかが違うだけで、同じ煮込み料理。ロシアではボルシチが日本のみそ汁のような存在です。そう考えたら、育児書は、世界各国にそれぞれあるひとつのカルチャーのようなもの。まるごとそのとおりにしなくてもいいやと思えたんです」

 ユーラシア大陸各国の家庭料理を日常的に作り、ウズベキスタンの炊き込みご飯プロフやロシアのボルシチは、彼女の家の定番メニューだ。
 そのため、よく使う羊肉は精肉店でひと月に5キロ、小麦粉はネットで25キロ単位で買う。
 「置く場所がないので」と、シンク下、吊(つ)り戸棚、収納棚、玄関脇のシェルフなどいろんなところから小分けした小麦粉が出てきた。

 古い賃貸マンションのこの部屋は、前から大好きだった喫茶店の上階にあり、空室が出たのを知ってすぐに賃貸を申し込んだ。
 「一度も内見していないんです。初めて入居した日? レトロで、台所スペースが1カ所に集中していて使いやすそうで、想像したとおり素敵な部屋だなとうれしくなりました。外出しても、“あの家に帰れる”と思うと、今も毎日うれしくって」

 台所に不満は一切ないと言い切る。
 たとえば、注文住宅の新築でも「収納をもう少し確保すればよかった」など小さな不満を取材で漏らす人は少なくない。
 憧れていたマンションとはいえ、中を見ずに契約したという彼女の多幸感の拠(よ)り所はどこにあるんだろう。

〈228〉ユーラシアの旅で食卓と暮らし方が一変

魅了されたロシアの家庭料理

 文系の大学を卒業後、エンジニアになった。当時は結婚願望が強かったため、「独身のうちに好きなことをしておこう」と25歳ですっぱり退社。北欧、ユーラシア大陸へひとり旅に出た。

 「ノルウェーから旅を始めたのですが、北欧はおしゃれなイメージどおり素敵な国でした。でも食文化は、オープンサンドイッチなど低温かつシンプルな印象。次にロシアに行ったら温かなボルシチと出会い、心を打たれたんですよね。だしへの親和性、汁物のありがたさを痛感しました」

 その後中国、中央アジア、ヨーロッパ、東南アジアをめぐり、ホームステイなど地元のふだんの暮らしを体験するなかで、すっかりユーラシアの食文化に魅了された。
 帰国後、旅日記をフリーペーパーに描いたら、「漫画にしないか」と出版社から声がかかる。以来、旅の漫画はシリーズ化されている。
 同じく食べるのが大好きなエンジニアの男性と29歳で結婚。新婚旅行はトルコとチェコを楽しんだ。

 「母が岩手出身で、漬物など保存料理が子どもの頃から身近にあったんですね。白菜の浅漬けも塩だけなのに甘みが引き出されて、時間が料理する食文化っておもしろいなあと、郷土料理や家庭料理に昔から興味がありました。各国の家庭料理を知ると、それぞれに知恵が生きている。特別な食材は使わない。寒い地方や豊穣(ほうじょう)でない国ほど工夫をして保存料理を作る。その知恵に惹(ひ)きつけられました」

 身近な食材でかんたんなのに何度作っても飽きがこない、家庭料理のおいしさに心を動かされた。

〈228〉ユーラシアの旅で食卓と暮らし方が一変

寿司よりカレーに興味がある

 バングラデシュでは池の水を抜き、一日かけて取った魚をカレーにして食べた。モロッコの砂漠では、らくだが運んだ食材と、少ない水でタジン鍋料理を作った。スペインでは庭のハーブを摘んで、パエリアに。フランスのケーク・サレ(塩のケーキ)は、その日ある野菜を入れて焼く。

 「旬の食材を工夫して上手に使い切り、土地の恵みを気候風土に合わせて無理のない方法でおいしくしあげるという暮らし方はとても根源的で、自分が忘れがちだったこと。日本だって梅がたくさんできたら漬けるわけで、東京でわざわざ買って漬けるのはどこか違うなと思い始めました」

 日本でも旅先の料理を食べたいので日々再現しているが、労力をかけて食材を買い集めることはしない。

 「ボルシチに使うビーツは、見かけたら買って冷凍しています。でもわざわざ探しにはいきません。どの国も家庭料理はかんたんで、そのへんにあるものを使っていました。その考えかたが好きだなあと。私自身、お寿司(すし)みたいな特別な料理より、カレーのような日常的な料理に興味がある。子どもには、パンは小麦粉からできていると教えたい。魚もまるごとの形を見せて、最後まで使い切ることを伝えたい。それだけなのです」

 大きな冷蔵庫を持っていたが3年前、あえて2ドアの大学生が持つような小さな冷蔵庫に買い替えた。旅先では野菜や卵は常温で保存していた。
 「うちは、近所にスーパーもコンビニもたくさんある。生鮮食品を食べ切れる分だけにすれば2ドアで事足ります」

 家庭料理のベースには、母から子へ受け継がれた知恵がある。各国のさまざまな家にホームステイをして授かったそれらたくさんの知恵を、毎日駒込で再現している。

 「この台所は、お世話になった世界中のお母さんに囲まれている感じ。何を見ても大切なレシピを教えてくださった女性たちの思い出がよみがえって楽しい気持ちになります」
 満足が生まれる根源はそこか。
 ロシアで買った片手鍋や、ウズベキスタンの綿花模様の器や、在日ロシア人の友達から譲り受けた祖母愛用のポットがところ狭しとひしめき合う台所で、彼女はじつに楽しそうに料理を盛り付けていた。

 「まーたプロフー?」といいながら子どもたちはぺろりと平らげるらしい。夫も彼女の助言で食関係の仕事に転職した。
 この、彼女の“好き”がもたらす家族への幸福の連鎖よ。

 ずうずうしく求めて手土産にもらったピロシキは、帰宅後に食べても変わらずとびきりおいしかった。彼女はきっと正しいレシピだけでなく、人を笑顔にするコツを知っているのだ。それは、教えてくれた世界のお母さんと同じく、最強で最高な能力である。

〈228〉ユーラシアの旅で食卓と暮らし方が一変

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