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秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は東京都八王子市にある、北条氏照の居城だった八王子城です。豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家と上杉景勝の大軍による殲滅(せんめつ)戦で滅んだ、関東屈指の名城です。
(トップ写真は八王子城・御主殿〈ごしゅでん〉への通路と虎口〈こぐち〉)

【動画】八王子城を歩く

関東屈指の山城 北条氏照の居城

東京都でもっとも有名な山城として名が挙がるのは、おそらく八王子城(八王子市)ではないだろうか。1590(天正18)年、豊臣秀吉が北条氏を攻め滅ぼした小田原攻めにおいて、殲滅戦が行われた城だ。北条氏照の居城だった八王子城の陥落は、北条氏の降伏を決定づける大きな一手となった。

滝山城浄福寺城で紹介したように、氏照が築いた城は技巧性があり、八王子城も関東屈指の見ごたえある山城といえる。広さばかりがうたわれるが、精巧につくり込まれた防御力の高い巨大要塞(ようさい)といえる。また、支配拠点としての姿が残り、北条氏のあり方や文化の高さもうかがえる。

氏照は、北条氏3代当主・氏康の三男で4代・氏政の弟だ。智勇を兼ね備え、北条氏を関東制覇へ導いた立役者の一人でもあった。武田氏と敵対した北条氏が上杉謙信と結んだ越相同盟など外交面でも活躍。秀吉に対しては徹底抗戦を訴え、小田原城の開城後は氏政とともに切腹している。

秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

北条氏照及び家臣の墓。八王子城の根古屋地区にある

滝山城からの移転、甲斐方面への防衛強化か

八王子城は1578(天正6)年頃には存在していたようだが、本格的に築かれたのは1584〜87(天正12〜15)年頃とみられる。氏照も、1586(天正14)年末頃に滝山城から居城を移したようだ。この頃は、関係が悪化した秀吉に備えて北条氏が領国内の防衛体制を強化しはじめた時期で、山中城(静岡県三島市)をはじめ、拠点的な城が大改修されている。氏照が秀吉との戦いを主導していたのであれば、八王子城も戦略的に構築されたと考えてよいだろう。

滝山城と八王子城は、直線距離にして8キロほどしか離れていない。「これほどの至近距離に、なぜわざわざ新たに城を築いたのだろうか」と不思議に感じるが、この移転には大きな意味がある。いちばんの理由は、甲斐方面に対する防衛強化だろう。八王子城が築かれた丘陵の西側は、相模・武蔵と甲斐を結ぶ脇往還(わきおうかん)だったとみられる奥高尾山稜に通じるのだ。

滝山城は、1569(永禄12)年に甲斐の武田信玄に攻め込まれている。この経験から、滝山城の防衛力に不安を抱いたのではないだろうか。甲斐との国境に近い津久井城(神奈川県相模原市)も、街道に近く水運ルートを押さえる要衝であることから、秀吉に備えて大改修された。甲斐からの侵攻への警戒心が高まり、対策していたことは間違いなさそうだ。

秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

根古屋地区にある、八王子城跡ガイダンス施設。事前に立ち寄るのがおすすめ

落城悲話 女性らが身を投げた御主殿の滝

八王子城は、心霊スポットとしても知られている。悲惨な殲滅戦の末に落城した悲話があるからだ。

1590年6月23日、前田利家や上杉景勝ら秀吉方の大軍に攻められ八王子城は陥落した。このとき氏照は主力部隊を率いて小田原城に籠城(ろうじょう)中で、八王子城には狩野一庵、中山勘解由(かげゆ)、近藤出羽守ら家臣が留守を預かり、農民兵が守備していた。

城攻めというと血みどろの激戦を想像してしまうが、無駄な血を流さず戦後処理を極力避けるのが得策で、秀吉も必要のない力攻めはしていない。犠牲を払ってでも激戦に踏み切るのは、勝敗を左右する戦いだけだ。つまり、城主と精鋭部隊が不在の八王子城に数万の大軍を投じて一気にたたき潰したのは、八王子城が北条氏にとって重要な拠点であり、秀吉が重要な一戦と判断したからだろう。

秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

御主殿の滝

奮闘むなしく、八王子城は半日ほどで陥落。落城時に婦女子らが自刃して身を投げた御主殿の滝は、その血で三日三晩赤く染まったといわれている。この地域には、先祖供養のために小豆の汁で「あかまんま(赤飯)」を炊く風習もあるという。

氏照の「御主殿」があった居館地区

八王子城はかなり広大な山城だ。大きくは、氏照の居館があった山麓(さんろく)の「居館地区」、その東側の家臣の屋敷が並んだ「根古屋地区」、居館地区背後の山上に築かれた山城「要害地区」、居館地区の南側にある外郭防衛線「太鼓曲輪(くるわ)地区」の四つの区域に分けられる。

史跡公園として整備され、一般的な見学スポットになっているのが、山麓の「居館地区」だ。氏照の居館「御主殿」を中心としたエリアで、政治的な中心地となる。城山川にかかる曳橋(ひきはし)を渡った一帯、南北約60メートル×東西約110メートルの範囲が御主殿だ。山城のある背後の山の斜面を切り崩して曲輪が造成されている。かつての曳橋は、現在の姿とは異なり簡単な木橋だった。

秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

曳橋。向こうが御主殿

御主殿の特徴の一つは、石垣が多用されていること。周囲を石垣の擁壁(ようへき)で囲み、その上に土塁が設けられている。

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御主殿。土塁で囲まれている

目を引くのは、木橋を渡ったところから御主殿の入り口までの、高低差約9メートルの石敷きの道のりだ。「コ」の字型に屈曲する階段通路になっている。途中の踊り場には四つの建物礎石が見つかっており、その大きさなどから櫓(やぐら)門であった可能性があるという。石敷き道には排水溝らしき側溝もつくられ、実際に歩き、踊り場で立ち止まってみると、なかなか立派で豪壮な門と通路が想像できる。

秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

右側3分の2ほどが残存したまま検出された石垣


秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

石敷きの階段通路


秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

通路の側溝

御主殿内は発掘調査を元に、礎石・庭石・敷石などが展示されている。専門知識がなければ理解しにくい展示だが、簡潔にいうと、枯山水の庭園や、庭園を望める接客用の建物(会所)などを伴う、守護の居館に匹敵する立派な居館が確認されている。7万点以上の出土遺物の半分以上は中国から輸入された磁器や国産の陶器で、ベネチア製のレースガラスの破片も見つかっている。氏照の生活様式などを知る貴重な成果といえる。

出土した陶磁器は、年代幅が狭く、焼損物が多く、接合率が高い。つまり、八王子城の築城期に大量に搬入され、落城の火災によって焼け、放置されたと考えられる。後の時代の遺物が交ざらないことから、八王子城はそのまま廃城になったと推察されている。

秀吉軍の殲滅戦で落城 関東屈指の名城・八王子城 (1)

御主殿

次回は、山上の山城「要害地区」、外郭の防衛線「太鼓曲輪地区」を紹介しよう。

(この項おわり。次回は4月12日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■八王子城
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/003/001/001/p005201.html(八王子市)

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