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東京の台所2
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〈229〉突然歩けなくなった彼女が今考えていること

〈住人プロフィール〉
フリーランスPR業・53歳(女性)
分譲マンション・2LDK・丸ノ内線 南阿佐ケ谷駅
入居1年・築年数18年
夫(47歳・会社員)との2人暮らし

    ◇

 広告代理店に20年勤務した後、43歳でPRプランナーとして独立。以降順調に自分のペースで仕事に打ち込んできた。実家の近くに居住し、妹や弟の家族とも頻繁に交流。夫婦で甥(おい)や姪(めい)をかわいがった。

 ところが48歳ごろから、スキー場や道で転倒してけがを負うことが頻発。治った後も、街のなんでもない平坦(へいたん)な道で足元がふらついたり、歩きづらく感じるようになった。

 彼女は「気にはなっていたのですが原因がわからなくて。ジムに通って鍛えるなどしていました」と語る。

 歩きづらさをやり過ごしていた2019年8月31日、突然足元がふらつき、家の近くの道端でばったりと転倒。左腕を骨折した。打ち所が悪く、9月4日に手術が決定。激痛をこらえながら帰宅した2日後、再びふらつきを感じ自宅で転倒した。左腕をかばったために今度は右腕を骨折した。

 「両腕骨折はさらに激痛で。ショックと痛さで手術直前まで号泣していました」
 3週間の入院を終えても、まだ足のふらつきは治らない。次に、腕と足をケアするリハビリテーション専門病院に3カ月入院した。自力歩行は難しいが、車椅子の乗り降りができるようになったので、12月に退院。しばらく実家で過ごし、昨年3月に現在のマンションを買った。

 「なぜ歩けないのか。整形外科から脳神経外科まであらゆる病院で検査を尽くしたのですが、異常なし。残るは心療内科の領域ではと言われて、腑(ふ)に落ちたのです。たとえば、横断歩道を時間内に渡らなければと思うと怖くて足が動かなくなるのですが、車椅子が後ろにあるとスクワットができる。これは外的要因ではないなと」

 2020年5月。心療内科で診断された病名は、「身体症状症」である。
 転倒や骨折の体験からくる心理的ストレスが、体に過度な緊張をもたらし、歩けなくなる。症例の少ない病気らしい。

〈229〉突然歩けなくなった彼女が今考えていること

不安を解消する台所の多彩な工夫

 「抗不安薬を処方され、不思議な気持ちでした。その時も今も複数の仕事を同時進行でこなしていますし、頭痛や不眠もない。起きられないとか、食べられないということもない。でも、薬をのまないと体が硬くなる。物を拾えないし、かがむ姿勢が怖い。そう思うとたしかに心理的要因からくるものなんですよね」

 現在は週3回の訪問リハビリを受け、外出は車椅子、自宅では備え付けの手すりやベストポジションバーと呼ばれる可動式の手すりにつかまり、歩行や料理をしている。仕事は、倒れる前と変わらず続けている。
 「こんな言い方が適切かわかりませんが、退院後にコロナが始まったので私はラッキーだったのです。コロナの時期に入院していたら家族も友達も誰もお見舞いにこられなかった。退院後はちょうど、世の中がオンライン中心になって、仕事仲間のなかには車椅子や歩けないことを知らない人もいるほどです」

 23歳からひとり暮らしを始め、ずっと台所は“自分仕様”があたりまえだった。
 いまは、夫、近所に住む母、妹、弟、ときに姪や甥も手伝ってくれる。だから、“誰が見てもわかる収納”“誰が立っても使いやすい台所”に腐心するようになった。引き出し、シンク下、吊(つ)り戸棚、冷凍庫の中まで細かく内容をラベリングしている。

 また、倒れるかもしれないという不安を解消する工夫が台所にはいっぱいだ。
 冷蔵庫とシンクの間にポジションバーを立て、すぐつかまれるようにした。腕と肩が完治していないので、大きな冷蔵庫は手を伸ばしづらい。そのため半年前に思い切って、小さなサイズに買い替え。下半分が冷凍庫という珍しいタイプの型にした。

 「夕方は薬が切れて少し歩きづらくなるので、できるだけ昼すぎの元気なうちに作り置き料理をして、夜の家事の負担を減らすようにしています。だしをとって製氷皿に凍らせておけば、おみそ汁がすぐできる。だから広くて取り出しやすい冷凍庫は本当に便利。私に限らず共働きや、コロナで自炊率が上がって作り置きをする家庭が増えたと思うので、冷凍庫が広い冷蔵庫のニーズはこれから高まるんじゃないでしょうか」

 PR業らしい冷静な目線は家電だけでなく、福祉用具にも向けられていた。
 「手すりでおしゃれなものってまだまだ少ないんです。いかにも介護っていう感じの色やデザインは、インテリアの邪魔をしますよね」

 かがむ姿勢が苦しいので、シンク下にしまいがちな掃除グッズも外に出し、食洗機にはだしや乾物、大皿を入れ、収納庫として使っている。
 「食洗機を引き出しておけば、料理をしているときにつかまれる。実際につかまらなくても、それがそばにあるという安心感が大きいのです」

〈229〉突然歩けなくなった彼女が今考えていること

誕生日のフェイスブックで病気を告白

 友達や仕事仲間にどう伝えるべきか悩んだ結果、倒れてから約1年後の誕生日に、フェイスブックに初めて、けがや車椅子の状態を詳細につづった。
 「親しさや距離感がそれぞれ違うので、あまり会っていない人には言いづらいなと。お誕生日にみんなふつうに“元気?”とメッセージをくれます。でも、元気と書けない。だったら一斉に伝えようと思い立ちました」

 冷静に自分のことを分析していてすごい、大変なのに頑張っているね、前向きでこちらのほうが励まされましたといったコメントがすぐに80余りついた。

 「全然そんなことないんですよ。いつ治るかゴールもわからないし、これでしばらく生きていくしかないから一つずつできることを増やしているだけなんです。期待しすぎたくないし、だからといって悲観的にも楽観的にもなりたくない」

 知り合いすべてに突然車椅子生活の報告をし、取材に応募してけがと病気の日々をつまびらかに話そうと思えるまでに、彼女はどれくらい悲観と楽観を行き来し、期待と不安に振り回されてきたことだろう。

 「残念だし不幸なことではあったけれど、この経験が仕事や社会に活(い)かせるかもと思っているんです。この間も、ファッションビルのバリアフリートイレに入って手すりにつかまろうとしたら、ガクガクして壊れていたんです。帰宅してビルにメールをしたら翌日すぐ『直しました。ありがとうございました』と返信が来ました。役に立ったんだな、私には私の役割があるなと感じました」

 夫は通院の送迎や、ゴミ出しや家事のかなりの部分を自然にやってくれるようになった。
 「でも、物を落としたときに取りに来てはくれない。最初は冷たいなって思いました。だけど夫は日常を一緒に暮らす人で、四六時中介護してくれる人ではない。私は自分でできることを一つずつ増やしていかなくてはと今は思っています」

 まだ、ひとりでは外出できない。怖いという気持ちが先に立ってしまうらしい。
 「ひとりでは外を全く歩けない状態です。入院前の歩きづらい頃から、たとえばエスカレーターにぽんと乗るのと、ぽんと降りるとき足が間に合わなくて怖かったですね。駅のホームの端の盛り上がっているところも怖い。横断歩道は時間内に歩けるか自信がない。ほらよく、エスカレーターの乗り口で戸惑っているお年寄りっていらっしゃいますよね。この病気をして、足腰が弱くなった高齢者の不安感やとまどいがよくわかるようになりました。私、自分が歩けないのに、ちょっと歩きづらそうにしている人を見ると、助けてあげたくなっちゃうんです」

 彼女はたくさんの人に支えられているが、支えてもいる。直接会えなくても、フェイスブックや動画を通して、与えられた環境の中で自分の果たせる役割をつねに見いだそうとする(“つねに”ではないかもしれないが)、彼女の生き方に学ぶ人は多いだろう。

 最後に「じつは取材に応募したのは下心がありまして」と、意外な告白が。
 「身体症状症で歩行困難という同じ症状の仲間を見つけたいんです。友の会もないし、体験者のブログも何も出てこない。この取材で、私もこの病気ですという人がひとりでも現れて連絡が取れたらうれしいなと思いました」

 ひとりで戦っている人がいたら、その呼びかけはきっと救いになる。『東京の台所2』にそんな役割があってもいい。そんなわけで、筆者プロフィール内記載アドレスからご連絡ください。

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