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斉藤和義さん、骨太なロックの原点は栃木のおもちゃの町に(前編)

骨太なロックを、熱くもひょうひょうと奏で、歌う、斉藤和義さん。「根拠のない自信」と「激しい思い込み」と「過酷なバイト」とで彩られた、ギター野郎の青春時代を語る。

おもちゃの町、ニュータウンで育った

――栃木県出身。どんな少年時代を過ごしていましたか? 音楽の原体験は?

宇都宮市のすぐ近くの壬生町(みぶまち)で生まれ育ちました。国内のおもちゃメーカーが集まる「おもちゃの町」と呼ばれ、いわゆる工業団地のモデルケースとして当時の社会科の教科書にも載っていたようです。うちも父がおもちゃメーカー勤務で、社宅暮らし。もともとは農家が多い地域で、小学校では僕らのようなおもちゃメーカーの家の子と、かんぴょう農家の子がいました。

小学生のとき、姉と妹がピアノを習い始め「俺もやりたい」と一緒に通いました。でも、いざ始めてみたらあんまり楽しくなくて、1年ぐらいでやめちゃいました。町に人が増えたことで5年生のときに新しい学校ができて、全員強制的に吹奏楽部に入らされて。姉貴がトランペットをやっていたこともあって、僕もトランペットを担当。大会やフェスティバルに出場し、結構楽しかったですね。

――どんな音楽を聴いていましたか?

あのころは歌謡曲。ジュリー(沢田研二)が大好きでした。ツイストとか、もんた & ブラザーズとか、ピンク・レディーもよく聴きました。最初に自分のお金で買ったレコードは、サーカスの『Mr.サマータイム』。不倫の歌なんですが(笑)、すごく好きな曲でした。

中学に入ったころフュージョンブームがあり、高中正義さんやカシオペアがはやりましたね。高中さんの『Blue Lagoon』という曲が好きで、初めて自分でお金を出して行ったのも高中さんのライブ。前売り券があるなんて知らず、当日友達と会場に行ったらソールドアウトと言われて。途方に暮れてそのへんをブラついてたら立ち見券が出るというので、慌てて買って。2階か3階の階段に座ってステージを見ました。

理不尽な現実への憂さを、大好きなギターで

――ギターを始めたのは?

小6でした。近くにできた大学に通う学生さんが近所に住んでいて、その人がギターをやっていると言うので、「次はギターでもやってみたら」とお袋に勧められて。でも、その人ギターを持ってるだけで弾けるわけじゃなかった(笑)。「弦は6本」「ドレミはここを押さえる」とかを教わっただけで、つまらなくてやめました。

ハマったのは中学生になってから。お兄ちゃんの影響などでギターが好きになった友達が周りに何人かいて、そいつらとバンドらしきものを組んで遊びでやっていたら、どんどんおもしろくなっていきました。学校の文化祭でライブをやったんですが、7人編成のうちギターが4人とギターばっかりのバンド(笑)。誰もベースの存在を知らなかったんです。

中学の部活は野球部でした。関東大会で優勝するほどの強豪で、運動神経のない僕は3年間ずっと補欠。今じゃ考えられないけど、監督は「声が出てない」と怒ってはビンタどころかパンチの嵐。部活が終わると部室で先輩からバットでお尻をたたかれる「ケツバット」の嵐。「巨人の星」みたいに体にダンプカーのタイヤをロープで巻きつけて走らされたり、夏でも水は一滴も飲んじゃダメだったり。イヤでイヤで仕方なかったけど、監督も先輩も怖くて。とてもじゃないけどやめられる雰囲気じゃなかった。それがトラウマになり、スポーツ嫌いに(笑)。理不尽な現実への憂さを大好きなギターでひたすら晴らす、そんな3年間でした。

斉藤和義さん、骨太なロックの原点は栃木のおもちゃの町に(前編)

――高校では本格的にバンド活動を?

そうですね。ただ、学校で音楽をやるような仲間には出会えず、ハードロック好きの姉貴の友達でバンドをやっている2、3歳上の先輩たちと一緒に。姉貴の影響で僕もハードロック好きになり、ラウドネスやオジー・オズボーン、マイケル・シェンカーなどをコピーしていました。オリジナルもあったけど……地獄の炎がどうのとか、そんな歌だったんですかね。僕はギター担当だったので、どんな曲かはよく知らなくて(笑)。その時の僕はギターさえ弾ければ、あとはどうでもよかった。

フリーターという概念がなかった当時

――卒業後は山梨の大学へ進学。やりたいことがあったのでしょうか?

いや、何も考えていませんでした。高校時代にはバンドでギターやって生きていこうと心を決めていて、学校もやめて上京しようと思っていたのですが、先生から「そう言って中退してうまくいったヤツはいないから、高校だけは出とけ」と。まぁそれもそうかなと卒業して、就職試験を受けたけど落っこちて。推薦入学を募集している大学があると友達から聞いて、じゃあそこでいいかと。当時はフリーターという概念がまだない時代だった。にしても、本当に何も考えてなかったですね(笑)。

大学なら一緒に音楽をやる仲間も見つかるかなと思ったけれど、出会えなかった。そのころの僕はハードロックに飽きて、アコースティックギターとブルースハープを演奏し、自分で作った曲を歌うスタイルになっていました。で、先に上京していた高校のバンド仲間から誘われ、大学を中退し東京を目指したんです。

ところが、友達も僕もサボってばかりで全然曲も作らず……(笑)。というか、音楽やってる場合じゃないほどバイトが忙しくて。

――バイトは何を?

銀座にある百貨店のデパ地下で売る惣菜を作っていました。デパ地下のさらに下に共同厨房(ちゅうぼう)があり、ステーキやハンバーグを焼くバイトです。朝6時ぐらいから仕込みが始まって、閉店まで作り続け、片付けて帰宅すると夜11時すぎ。めちゃくちゃ過酷でした(笑)。休みは週1回しかないからギター弾いてる時間なんてほとんどない。こんなことをするために東京に出てきたんじゃないんだけどなぁ、と。やめたかったけど、でも後釜が見つからないとやめられない。そのうちに「社員にならないか」って誘われました(笑)。

そんな感じだったので、友人とのバンドはほぼ活動しないまま解散。一人になってからも相変わらずバイトが忙しく、ときどきライブをするぐらいで。

――焦りはなかったのですか?

上京するときに親には「25歳まで」と約束していたので、もちろん焦るのですが、若気の至りというか、意味のない自信というか、思い込みだけは激しくて。オリジナル曲はせいぜい5、6曲しかないし、ライブもほとんどやっていないのに、なんでみんなオレに気づかないんだろう?と本気で思っていました(笑)。

でも、25ぐらいになると諦めて田舎に帰る音楽仲間も多く、気づいたらみんないなくなってた。焦るというより、さみしかったですね。僕からすると田舎で仕事につく方が勇気があるなぁ、と。東京にいればそのうちデビューできる、と根拠のない自信があった。かと言って、当時イカ天(テレビのオーディション番組『いかすバンド天国』)が盛り上がっていたけど、「ああいう軽薄なのは好きじゃない」「将来、あの番組出身なんて言われたくない」とか(笑)。そんな僕に業を煮やした姉貴から「いつまでもウダウダして。イカ天嫌いとか言ってるけど、単に出る勇気がないだけでしょ!」とけしかけられ、売り言葉に買い言葉で「じゃあ出たるわい!」と応募しました。

すでにイカ天は終わっていてその後の番組でしたが、イカ天同様、オーディション形式の勝ち抜き戦でした。それまでライブはせいぜい友達が3、4人くるだけだったのが、回を重ねるごとに、2公演にしないと入りきらないほどお客さんが押しかけてきた。「テレビ、すげぇ」と驚きました。そうこうしているうちにレコード会社や事務所から声をかけてもらうようになった。25歳のときでした。一応、親との約束にも示しがついた形でしたね。

恥ずかしいのもあって、姉と妹以外には誰にも言わずに出演していたのですが、放送された翌日にバイトに行ったら「昨日見ましたよ!」って、ちょっとした騒ぎになってて。おかげで、ようやくバイトを辞めることができました(笑)。

(写真=山田秀隆)

後編「斉藤和義さん『これはオレじゃない』から全宅録アルバムにたどり着くまで」へ続く

    ◇

斉藤和義(さいとう・かずよし)
1993年8月25日にシングル『僕の見たビートルズはTVの中』でデビュー。翌年にリリースされた『歩いて帰ろう』で一気に注目を集める。代表曲である『歌うたいのバラッド』『ウエディング・ソング』『ずっと好きだった』『やさしくなりたい』は様々なアーティストやファンに愛される楽曲となっている。自他共に認めるライブアーティストであり、弾き語りからバンドスタイルまで表現の幅は広い。また自らの音楽活動に加え、様々なアーティストへの楽曲提供、プロデュース等も積極的に行っている。2011年には希代のドラマー、中村達也とのロックバンド、MANNISH BOYSの活動もスタート。これまでに3枚のオリジナルアルバムを発表している。寺岡呼人、奥田⺠生、浜崎貴司、YO-KING、トータス松本と共に結成したカーリングシトーンズの一員としても活動。

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INFORMATION

自粛期間中に制作した、21枚目のオリジナルアルバムが3月完成!「55 STONES

斉藤和義さん、骨太なロックの原点は栃木のおもちゃの町に(前編)

2020年2月から全国ツアーを開催する予定が新型コロナウイルスの影響により延期となり、その自粛期間中に曲作りをスタートさせ完成に至った本作は、前作のアルバム『202020』の実験的なアプローチから一転、一人多重録音を中心に、斉藤和義らしさがにじみ出るメロディーやサウンドが、豊かで奥行きのある歌詞やストレートな言葉と溶け合い生み出された。35歳の時に発表した『35 STONES』(2002年)、45歳の『45 STONES』(2011年)を経て今年55歳を迎えることも含めタイトルが『55 STONES』に決定。その時々の出来事を映し出しリアリティーあふれる作品を発表してきたが、時が流れても変わらずに音楽と共に歩いてきた斉藤和義の今を感じる作品に仕上がった。

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