〈158〉営業は土曜日だけ。日常を忘れる読書空間 「草径庵」

横浜市磯子区の住宅街にひっそりたたずむ「本とお茶 ときどき手紙 草径庵(そうけいあん)」は、ゲームに例えると“レアキャラ”のような存在だ。
営業しているのは土曜日のみ。場所も、最寄りの横浜市営地下鉄弘明寺(ぐみょうじ)駅や京急線上大岡駅から歩いて20分近くかかる。駅からバスで近くまで行けるが、いずれにせよ気軽に立ち寄れる店ではない。しかも、現地に到着したらしたで、個人宅の敷地内に建つアパートの1階にあるため、入るのにも少々勇気が求められる。
もともとは、庵主(あんじゅ)でライターの安木由美子さん(53)が、自分が日常を忘れて読書に没頭するために作った場所。集客のための情報発信も積極的にはしていないという。
「今は黙っていても誰かがSNSなどで情報発信をしてくれる時代ですが、私はいかに情報を出さないかということを考えてきました」と、安木さん。この店を始めたのは2012年11月のこと。実家の敷地内に全4戸のアパートがあり、空室だった101号室を改装して店にした。以前は安木さんの母が友人とお茶をする時に活用していたが、日常から離れる場所を作りたいと考えていた安木さんに、母が「ここ使っていいよ」と言ってくれたのだ。

大学で哲学やフランス文学などを専攻していた安木さんは、夫の仕事で京都に住んでいた時期があり、銀閣寺の近くにあるロマン・ロラン研究所の読書会によく参加していたという。貴重な資料や本が並ぶ空間に身を置き、本について語らうひとときはかけがえのないものであり、あのような空間がほしいと思うようになった。
101号室は、部屋の窓を本棚でふさぎ、鬱蒼(うっそう)とした森のような場所にして読書にふけるつもりだった。だが、内装デザインを担当した知人に「こんなにきれいな庭が見えるのに、もったいない!」と言われてしまう。
緑の庭に面した極上の読書空間
「元々の玄関ではなく、母屋の庭に面してベランダがあった場所を入り口にしているのですが、これもデザイナーの提案。私はここで育ったから、家の庭がいいなんて思っていなかったんですけどね。窓に向かって本棚を設置することになったので、営業日以外は本棚に布をかけて本の日焼けを防いでいます」

確かに、大きな窓から見える庭の緑が美しく、何時間でもここにいたくなる心地よさがある。丁寧に使い込まれたアンティークの家具に、本棚にびっしりと詰まった古書や雑誌類。幸田露伴(こうだろはん)全集全44巻、ロマン・ロラン全集にロマン・ロラン研究所発行の機関誌「ユニテ」といった貴重なものから哲学書、文芸書、心理学関係の書籍、写真集などさまざまな本があり、会員になれば借りることもできる。本好きにとってはこの上ない空間だ。
2014年には隣の102号室も空室になり、店を拡張することに。壁を三角にくりぬいて隣と行き来できるようにし、広々とした空間が生まれた。安木さんが日々の気づきを綴(つづ)ったエッセーや、おすすめ本の紹介などを掲載する月刊「草径庵通信」の発行も開始。横浜市内の映画館「シネマ・ジャック&ベティ」やカフェなどに置いてもらったところ、通信に載せた手書きの地図を頼りに、店を訪れる人が現れたという。

「それまでは母や私の友達や、内装工事をしてくれた大工さんくらいしか来ていなかったので、まさかあの地図だけで来るとは!とびっくりしました」
お構いしないのも、おもてなし
着物にかっぽう着が安木さんの接客時のスタイル。顔見知りの常連も少しずつ増えていったが、安木さんの方から話しかけることは控え、自由に時間を過ごしてもらうようにしている。それでもこの場所やここでの出会いを楽しみにする人が集うようになり、一時期は週3日店を開け、ケーキや軽食などの食べ物を用意していたこともあった。
「1人で来られる方が多くて男女半々くらい。お客さんには『適度にほっといてくれるのがいい』と言われます。話しかけられたら話をしますし、いろんな人と話をするのは、一人でこもって書き続けるライターという仕事にもいい影響がありますね」
店を開けていない時は、ここが安木さんの仕事場になる。店を始めた頃は編集制作会社で働いていたが、2015年にフリーランスライターとして独立。順調に仕事が増え、店との二足のわらじは大変になっていたという。だが、新型コロナウイルス感染拡大で、昨年から断続的に休業することに。今年3月に営業を再開したが、開店するのは土曜のみ、メニューも飲み物だけに絞った。

とはいえ、安木さんはコロナ禍で、店に積極的に客を集めず、人それぞれが好きに過ごせるこの空間のスタイルが間違っていなかったと再認識したという。
「1日に10人くらいの来客で、空いている時は1人で1部屋だから、もともとソーシャルディスタンスが保てていた(笑)。いい距離感での人との付き合いができる場所だったんじゃないかと改めて思いました」
平和である限り、続けていきたい
店を休んでいる間に、ライターとして大きな仕事に取り組んだ。それは俳優・宝田明さんの半生を振り返った『送別歌』(ユニコ舎)の構成担当だ。「ゴジラ」シリーズや「放浪記」「ミンボーの女」など200本以上の映画に出演し、「風と共に去りぬ」「マイ・フェア・レディ」「ファンタスティックス」などの舞台でも活躍する宝田さんは、日本統治下の朝鮮生まれ。2歳から満州・ハルビンで暮らし、終戦後に日本に引き揚げてきた経歴を持つ。少年期の苛烈(かれつ)な経験から、強く平和を希求するようになったという宝田さんのもとに安木さんは何度も通い、平和への思いや、俳優人生の足跡を一冊の本にまとめた。

「宝田さんは丁寧に向き合って話をしてくださり、改めて戦争のことを知らなきゃいけない、次の世代に伝えなくてはと強く感じました。もちろんこの本も、この場所で書きました」
読書に没頭し、ひとりの時間を堪能する。このような空間を満喫できるのも、平和があってこそ。
「この建物がだめになったり、私が病気になったりしない限り、細々とでも続けていきたい。私がおばあさんになっても、店番は誰かに頼んで、私はおしゃべりだけ担当するのもいいですよね」

大切な一冊

『エティカ』(著/スピノザ、訳/工藤喜作、斎藤博)
17世紀オランダの哲学者スピノザの著書。ユークリッド幾何学の形式に基づき、神と人間精神の本性を定理と公理から演繹(えんえき)的に論証。現代思想にも大きな影響を与えている哲学書だ。
「大学時代に勉強していたのは実存主義のサルトルなのですが、サルトルは人間中心すぎるかなと思っていた時に、西洋にしては東洋寄りの感じがするスピノザに興味を持って買いました。私は、この本は人がいかによろこび多く、肯定的に生きることができるかということについて書いていると解釈しています。うまく行かないと感じた時に、『あの本のあそこにこんなことが書いてあった』と読み返しています。草径庵がオープンしたのは11月24日で、スピノザの誕生日。偶然なんですけど、ちょうどいいなと思って。いつもこの本に守られている感じがしています。何度も読み返してボロボロになってしまい、専用の革カバーを作りましたが、新しい本も買いました」
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本とお茶 ときどき手紙 草径庵
横浜市磯子区岡村4-20-15 TZ1F