UAと浅井健一、2人の変わらない関係。伝説のバンド「AJICO」の“なれ初め”(前編)

UAさんと浅井健一さんが中心となり、結成した「AJICO」。わずか1年で活動休止となったこの伝説のバンドが、今年20年ぶりに復活した。インタビュー前編は、浅井さん自身のミュージックヒストリー。音楽の原点から上京秘話、BLANKEY JET CITYの誕生、そして、UAさんとの出会いと「AJICO」結成までを振り返る。
家族で遊んだ帰りの車中、流れていた映画音楽の記憶
――UAさんには以前、音楽の原点についてお話を伺いました。浅井さんの音楽の原体験は?
浅井健一:小学校の1年生ぐらいのころかな。休みの日になると、両親が遊園地や観光地に連れてってくれたんです。めいっぱい遊んだ帰り道、一番幸せな時間に親が好きだった映画音楽が車の中でいつも流れていた。『太陽がいっぱい』『夕日のガンマン』……。それが最初に触れた音楽で、オレの細胞の中には間違いなくその辺りのメロディーが入っていると思う。
一方、姉は洋楽が好きで、その影響で当時はやっていた曲もよく聴いていました。デヴィッド・キャシディ、ザ・ビーチ・ボーイズ、カーペンターズにクイーン。音楽好きの家族のおかげで家の中ではそういう曲が鳴っていて、それはラッキーだったかな。
―自身で演奏するようになったのは?
浅井:中学生になってからですね。学校でフォークソングがはやっていて、自分も弾いてみたいなと。ビートルズなどの影響もあって、「自分でもいつかバンドをやりたい」と思っていたんです。中1のとき、お年玉でフォークギターを買って。ヤマハのギターで1万3,000円ぐらいだったかな。そうして弾き始めました。
UA:独学で?
浅井:『アルペジオの初歩の初歩』っていう教則本をギターと一緒に買って。それに載ってたかぐや姫の『神田川』とかを弾いてさ。
UA:赤い手ぬぐいマフラーにして……。もしかして、そこから『赤いタンバリン』(浅井氏率いるBLANKEY JET CITYのヒット曲)につながるの?(笑)
浅井:(笑)。あとは『「いちご白書」をもう一度』とかね。そういう時代だった。中2、中3になるとエレキとかやるヤツも出てきて、バンドを組み文化祭で演奏したりしました。
UA:フォークを?
浅井:いや、そのときは世良公則&ツイストなんかをやってたね。俺はベースだったな。俺に選曲の権限はなかったな。
「バンドやりに東京行ってくるわ」で、親戚中が大騒ぎ
――24歳で上京します。きっかけは?
浅井:地元の名古屋でずっとバンドはやっていたんだけど、なかなか動員数が増えない。そのまま名古屋でやり続けるのか、東京に行くべきか……。ずっと迷ってたんだけど、賭けに出ようと。家出して東京に向かいました。
UA:それって家出っていうの?
浅井:書き置きしてきたから。「バンドやりに東京行ってくるわ」って。そしたら親戚中が大騒ぎになったらしくて。「健ちゃんが突然おらんくなった!」って。もう20歳過ぎてたから、家出というより蒸発?(笑)
成増に住んでいた友達の家に居候しながら、金はいいけど体に悪いバイトを1カ月間して35万円ぐらい稼ぎ、そのお金で東高円寺にアパートを借りました。で、バンドを組んだ。それがBLANKEY JET CITYでした。
UA:ほかの2人も東京にいたの?
浅井:いない。照ちゃん(ベースの照井利幸さん)が名古屋でボロボロになってるっていううわさが流れてきまして。「どうせボロボロになるなら東京でいっぺん賭けてからボロボロにならない?」って迎えに行った。
UA:名古屋まで?
浅井:そう。友達から2万円で買った、ハンドルを回すとクラクションが鳴っちゃうスカイラインJAPANに乗って。ヒューズを抜いて鳴らないようにしてさ(笑)。それで、照ちゃんと東高円寺のアパートで一緒に暮らし始めた。照ちゃんがベース、オレがギター・ボーカル。ドラムは、東京のパンクバンドでベースをやっていたゴーストっていう人に無理やりやってもらって。
UA:初代ドラマーは違う人だったんだ。
浅井:相当怖い人なんだろうと思っていたら、すごくいい人で。実は当時、達也(ドラムの中村達也さん)も近所に住んでいて一緒に遊んだり飲んだりしてたんだけど、いろんなバンドから引っ張りだこの達也は別のバンドで叩(たた)いてた。あるときクラブチッタのライブでオレらのバンドと達也のバンドが一緒に演奏することがあり、そのとき達也から「すごいな、お前ら」と言われたんです。そして「ベンジー(浅井さんの愛称)、もったいないから『イカ天』に出ろ」と。
でも、オレは「イカ天」嫌いだったんで。無名のバンドを発掘するっていうコンセプトは素晴らしい番組だと思っていたんですが、軽いノリのおふざけバンドがほとんどだった印象で。だから興味がなかった。そうこうしているうちに達也が「オレに叩かせろ!」と言ってくれて、正式なメンバーに。レコード会社にデモテープ送ったりはしたものの、なかなか評価されなかった。じゃあやっぱり「イカ天」に出ようということになって。
―5週勝ち抜き、その後メジャーデビュー。生活は変わりましたか?
浅井:激変しましたね。毎日バイトして日曜だけバンドの練習をする日々から、バイトしなくていい、毎日バンドやっていいという生活になった。「イカ天」には感謝しかないですね。あと、「家出した健ちゃんがテレビに出とるがや!」と親戚中が盛り上がってたらしい(笑)。
UA:変なニュースじゃなくてよかったね(笑)。
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