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東京の台所2
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〈234〉「私、頑張っているよな」。台所は自己肯定の場所

〈住人プロフィール〉
会社員・30歳(女性)
賃貸マンション・1K・京王井の頭線 駒場東大前駅
入居半年・築年数3年・ひとり暮らし

    ◇

 玄関に鍋の棚があった。その横にはどーんと家族4人で使えそうな大型冷蔵庫が。
 物件を探すとき、ひとり暮らしでも「2口ガスコンロと魚焼きグリルがあること。結婚していた頃に使っていた冷蔵庫が入ること」が条件だったそうだ。

 「鍋やせいろや水、ワインのストックは台所に入りきらなくて玄関に置いています。お茶セットや炊飯器、電子レンジもやっぱり置ききれなくて居室に。洋服はそんなに持ってないので小さなクロゼット一つで十分なんですが、器や料理道具が部屋まで侵食しちゃって。収納が足りません」

 梅シロップ、梅みそ、ショウガの甘酢漬け、柚子胡椒(ゆずこしょう)……。自家製漬物が次々登場。野菜室にはこれから漬けるという皮付きらっきょうの大きな袋が二つ控えていた。冷凍庫には、ラズベリーといちごで作ったヨーグルトアイスのバットが。
 「口さみしいときに少しずつ割って食べるとヘルシーなおやつになります」

 コロナ前は、近所の友人を招いてよく“宅飲み”をしたという。それにしても、ひとり暮らしでこれだけ手作りの料理を常備する人も稀有(けう)だ。

 「引きますよね? 自分でもエンゲル係数も、食材や料理道具にお金をかける割合も人よりかなり高いなって思います。学生の頃からなんです」

 自宅通学だったが、1年のときにできた恋人がひとり暮らしで、4年間ほとんど彼の家に通った。その台所を借りて、一つずつ自分の買った道具や器を増やし、料理をするのが楽しくてしょうがなかった。

 「18の時、バイト代を貯(た)めてストウブの鍋を買ったときはうれしかったですね。母でも彼のものでもない。自分の鍋を初めて買った!と」

 学生時代から好きな焼き物作家のギャラリー巡りをしていた。同じ趣味に付き合う同級生はいなかった。

 銀行に就職した年に彼と別れ、翌年同期の男性と結婚した。
 「初めて自分のキッチンを持てて、うれしくて料理も張り切りました。牛肉の赤ワイン煮込みとか、自分のためには作らないけど、彼のためなら楽しい。私は誰かのためにご飯を作るのが好きなんだと実感しました」

 仕事はハードで残業も多い。しかし、疲れているときほど台所に立つ。23時から、やおら牡蠣(かき)のオイル漬けを作り始めたり、一心にみじん切りをしたり。限られたスペースで段取りを考えながら手を動かす時間が好きだった。
 「気持ちの切り替えができて、ストレス解消になるんですね、きっと」

 ところが、子どもを授かるも出産に至らなかったことから心のすれ違いが起き、26歳で離婚。ひとり暮らしを始めた。
 初めて持つ自分だけの台所。商社に転職し、ますます多忙になるのと呼応するように、料理にも道具にものめり込んでいった。

 「あまりに残業が続いた時、なんだかむしゃくしゃと腹が立って百貨店で1万5千円の開化堂の茶筒を衝動買いしてしまいました。さすがに同僚に心配されました」

 ベーグルやグラノーラまで手作りするという彼女に、ストレス解消というだけで、そこまで夢中になれるものだろうかと思った。パン作りなど少量でも手間は変わらない。引きはしないが、何かの反動のようなものを感じる。すると彼女は語りだした。

 「小さな頃からきょうだいで勉強を競わされ、勉強は好きではなかったのでずっと自己否定されている感覚でした。だから母や実家は苦手で……。そんな過去も影響しているかもしれませんね。今は自分の好きなものを自分のお金で買って、好きな料理を作ることができます。この台所を見ると、私がんばっているよなって思える。私にとって台所は、自己肯定の空間なんです」

〈234〉「私、頑張っているよな」。台所は自己肯定の場所

コロナに罹患して気づいたこと

 鍋、調味料、器、食材。彼女いわくここには“好きのかたまり”しかない。それだけで、「自分のお金で全部やれてえらいじゃない」「こんな料理が作れてがんばったじゃない」と思える。幼いころの、“だめな自分”を今、台所で繕っているんだろう。

 もうひとつ、料理に打ち込む理由がある。
 「なにかを作って誰かの心を動かすようなクリエーティブな仕事にとても憧れますが、実際は金融、商社と全く違う畑に進み、自分にはできないこともわかっています。けれど料理だけは自分の手で作れます。憧れを具現化しているという実感が持てる」

 じつは、緊急事態宣言が解かれていた昨年末、近所に住む旧職場の先輩を介してコロナに罹患(りかん)した。このとき料理が自分の人生にいかに大切なものか、痛感したらしい。

 「なんの味もせず、食感だけがわかる。味覚と嗅覚(きゅうかく)を失ったときは、精神的に堪(こた)えました。薬もない、いつ五感が戻るのかもわからない、解決策がないなかでひとりで自宅療養していると、生きる力が薄れていくようでした」

 先に罹患した先輩の助言だけが道標だった。
 「料理をする気力が失せるから、元気なうちにネットでレトルトみたいに簡単に作れる食料を買っておくといいよ」
 「毎朝香水を嗅いで、嗅覚が戻ったかテストしているよ」

 香りの強いせり鍋を作っては味覚を探った。辛いものは遠くでわかるが、だしのような繊細なものはまったくわからない。
 なにも作りたくなくなり、気づいたら5キロ痩せていた。完全に感覚が戻ったのはひと月後である。

 「味と匂いがしないのって、私には色が見えなくなるのと同じ。まるで世界が色を失ったようでした」

 人より興味があるほうだとは思っていたが、ここまで料理が自分にとって生きる力になっていたとはと、自分でも驚いたらしい。つらいコロナの体験で得た大きな発見である。

 人が料理をする理由にはいろいろある。
 作ることで自分をなだめ、癒やし、救われる。
 好きなバルサミコ酢や塩の使い分けを語るときの彼女のように、朗らかな気持ちで鍋が並ぶ玄関をあとにした。

〈234〉「私、頑張っているよな」。台所は自己肯定の場所

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