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かなうなら永遠に追い続けていたい、甘美な謎の渦

撮影/猪俣博史

『山の人魚と虚ろの王』

暗い夜道を歩いていて、ふいに漂ってきた芳香と出くわすことがある。導かれるままに香りのほうへふらふらと引き寄せられ、民家の垣根越しにその正体を探すものの、花の形はついにみとめられない。想像のなかでは目の醒(さ)めるような白い花弁がひらいていたりするものなのだが、結局、首をひねりながらそれた道を元に戻る。

『山の人魚と虚(うつ)ろの王』の読書体験は、例えるならばそんな経験に似ている。幻想のベールに包まれた未知の領域へ地図も羅針盤ももたずに足を踏み入れ、どこを歩いているのかわからないままさまよっているうちに、芳(かぐわ)しい香りに鼻先をなでられたような心地になるのである。甘美である。瞬時に酩酊(めいてい)する。だがしかし、芳香の発生源はついにはっきりとせず、その姿を見ることもできない。

「これはわれわれの驚くべき新婚旅行の話。ある種の舞踏と浮揚についての話。各種の料理、幾つかの問題ある寝台と寝室の件。大火。最終的には私が私の妻に出会う話」と冒頭にある。そしてどうやら物語は回想の形で語られているようだ。ならば語り手は今現在、どこにいるのか。このささやかな疑問がのちに重要なポイントとなる。

入り口でばらまかれた幾つかのキーワードを拾いあつめながら物語に分け入っていく。語り手の「私」は縁戚の女性と婚姻関係を結び、列車の旅に赴いている。だが行き先は風光明媚(めいび)な観光地などではなく、ふたりの伯母にあたる山の人魚、舞踏団の主宰者だったらしい人物の葬儀に急きょ変更した模様。

たどり着いた山上に建つ〈夜の宮殿〉では謎の降霊会が催されており、「私」はそこで妻が浮揚する姿を目撃する。まるで妻が分身しているとしか説明できない、齟齬(そご)に満ちた出来事の数々。死者である「私」の母の降臨。そして促されるままに「私」はそこに火を放つ――。

『山の人魚と虚ろの王』
『山の人魚と虚ろの王』山尾悠子 著 国書刊行会 2,640円(税込み)

果たしてこれは夢の話なのか。眠りについている語り手の、臨死の記憶なのか。そもそも主人公はいったい誰なのか。浦島太郎の竜宮城とも、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』とも、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とも、似ているようで異なっている。

ひとつの冒険譚であるが、試されるのは読み手の想像力、その翼の羽ばたきの強さであり、細部の描写の妙、こぼれるような言葉のしずくのつやめきに感応する器の深さである。

豊かなきぬ擦れの音が行き交う舞踏の場面、におい立つような料理の数々、延々とつづく夜の世界。謎に満ちたシュールな映像をつなぎあわせたかのような驚くべき言語世界。個々のモチーフが暗示するものは何か。物語を写す作者のカメラ=視点はどこに据えられているか。ほんらい、謎に美醜はないと思うが、かなうことならば永遠に追い続けていたい、浸っていたいと思わせるような甘美な謎が渦巻いているのだ。

ミルキィ・イソベ氏による装丁、銀の箔(はく)押しが際立つ造本の美しさも格別。かばんにこの本を入れていると、まるでひとつの展覧会を丸ごと持ち歩いているかのような興奮につつまれる。外箱にもちいられているのは、画家・ルドンの版画。石柱と石柱のあいだに浮遊する「血走った巨大な眼球」のおぞましい美しさ。

おびただしいイメージの集合体、イメジャリーに五感を突かれまくって現世に戻ってくると、果たしてここは以前いた場所だろうかと疑ってしまうほど。正体は不明だが確かにある芳しいもの。長い人生のなかで、そんな謎と出会う瞬間があってもいいのではないだろうかと思うほどに、その香りは魅惑的だ。

かなうなら永遠に追い続けていたい、甘美な謎の渦
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PROFILE
八木寧子

やぎ・やすこ
湘南 蔦屋書店 人文コンシェルジュ
新聞社、出版社勤務などを経て現在は書店勤務のかたわら文芸誌や書評紙に書評や文芸評論を執筆。ライターデビューは「週刊朝日」の「デキゴトロジー」。日本酒と活字とゴルフ番組をこよなく愛するオヤジ女子。趣味は謡曲。

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