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東京の台所2
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〈235〉東京卒業。大きな決断を生んだ晩酌時間

〈住人プロフィール〉
アルバイト・33歳(女性)
賃貸マンション・1LDK・千代田線 町屋駅(荒川区)
入居7年・築年数約40年
夫(大学院教員・34歳)との2人暮らし

    ◇

 東京の美大卒業後、故郷広島で美術予備校などのバイトをしながら彫刻や絵画の創作活動を2年間続けた。
 だが、広島には思うような美術の仕事がない。彼女は再び上京を決意する。
 「ものづくりに携わる仕事がしたかったので。やっぱり東京が大好きなんですよね」

 現在は彫刻家の工房でバイトをしている。美術予備校時代に知り合った同僚の恋人は、その後東京の美大に就職。助教をしている。彼も広島出身だ。

 ふたりは27歳で結婚。ふたりとも食べること飲むことにくわえ料理好きときている。そのため、とにかく夕食の時間が毎日長いそうだ。

 「朝は忙しくてバラバラ、昼は互いに仕事で、夕食しかゆっくり話す時間がありません。だからか短くても1時間、長いと2時間、ダラダラ飲み続けて3時間ということも。結婚当初は、他人感があってぎこちなかったんですが、夕食の時間のおかげで、数年かけて夫婦が夫婦らしくなっていったような気がします」

 最初からわかり合っているわけではなく徐々に夫婦になっていく。結婚とは案外そういうものかもしれない。彼女の素直な実感に共感した。
 最初はビール。次に料理に合わせてワインや日本酒を。おかずは3、4品用意するという。といっても疲れているときは出来合いのものを買うこともあるし、冷凍餃子(ギョーザ)や市販のチャーシューにスライス玉ねぎを添えるだけのことも。

 「なにがなんでも手作りしなきゃとは思ってないんです。作るのが苦にならない程度にやって、料理よりゆっくり食べることの方に時間をかけたいなと」

 食卓の語らいは日々に欠かせない習慣だが、じつはつい最近まで話す内容はシビアで重かったらしい。
 テーマは、「これからどう生きていくべきか。東京で暮らし続けるのか」。

 夫の教員の任期は2023年までと決まっているからだ。互いに、将来について展望が見えない期間が長く続いた。

テーブルと椅子セットはネットで購入。全部で約2万5千円

思いがけない決断

 「彼は彫刻家で仏像や文化財の修復を手掛けているので、広いスペースが必要。創作を支えたいけれど、じゃあこの先どうしようと。東京は家賃も物価も安くない。でも地方には仕事がない。考えても考えても答えが出ないから、あえて互いにそういう話題を避ける日もありました」

 2年ほど前、彼の実家から不意に提案された。
 「おばあちゃんのおうちを使うのはどう?」
 祖母は高齢者施設に入居しているため、空き家になっていた。

 広島に帰るという選択肢を当面考えていなかったふたりは悩みに悩んだ。夫は退職後、彫刻に専念したいと考えている。独立してやっていけるかという不安に、東京を離れる不安が重なる。
 とくに、一度故郷から舞い戻った経験のある彼女は、なかなか踏ん切りがつかなかった。

 「東京は毎日どこかで展覧会やライブがありますし、広島とでは街の規模と刺激が全然違う。離れたくないという思いがありました。でもおばあちゃんちは広くて古い昔ながらのいい建物。私たちが住まなかったら更地にする可能性もあると聞いて、それはしたくなかった」

 晩酌の時間が日に日に長くなっていく。
 「自分たちのやりたいことを続けていくためにはなにが必要か、自分たちにはなにができるか。最初は遠慮して言えないこともあったのですが、だんだん本心が言えるようになっていきました」

 ものづくりに携わる者同士、エゴもあれば主張も違う。グラスを傾ける時間が、ふたりの心をほぐしていく。

 半年がかりで、広島で文化財修復の仕事と創作の両輪ができるような会社をふたりで作るという結論を出した。
 以降、食卓の話題は新しい会社のこと、祖母宅の改装が中心に。庭で七輪をやろう、フローリングは自分たちで張ろう、漆喰(しっくい)も塗りたいね、洗濯物を思いきり広げて干せるねと、おしゃべりが止まらない。ちなみに今の家は、物干しスペースがひどく狭く、小さくしか干せないらしい。

 先日、最後の賃貸契約更新をした。残り2年、「できる限り自分の足で東京を歩いてみて回りたいんです。広島に帰ると決めてから、コロナ禍でどこにもいけませんでしたので」。

 不安がないといえば嘘(うそ)になるが、ふたりで仕事を始める楽しみのほうがはるかに勝る。「夫の技術と才能に惚(ほ)れて結婚した。リスペクトしています」という彼女は最終的に、「なにかあっても、この人とならなんとかなるだろう」と腹を決めた。
 本心を言い合うだけが夫婦ではない。この話題はもめそうだなという直感が働くときは、うまくケンカを回避しながら話し合うコツも身についた。

 何百回と杯を重ねた夜が、その夫婦にしかわからないほどよい忖度(そんたく)と信頼を育み、希望をつないだのである。

毎晩晩酌をするので、酒器はすぐ手の届くところに

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