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東京の台所2
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〈236〉「この家もらってね」。言い遺してあの女性(ひと)は逝った

〈住人プロフィール〉
会社員・56歳(女性)
分譲マンション・1LDK・京浜東北線 蒲田駅(大田区)
入居2年・築年数約15年
夫(会社員・60歳)、長男(会社員・27歳)、長女(会社員・23歳)、次男(専門学校生・19歳)との5人暮らし

    ◇

 「このマンション、いただいたんです」
 「ご親戚かなにか」
 「いえ、赤の他人から」

 話せば長いのでまあ座って聞いてくださいという彼女のことは、2013年、「5人家族55㎡、究極のミニマム暮らし」で取材した。間取りは2LDKで、6畳間に、19歳、15歳、12歳の兄妹の3段ベッドと机が三つ。残る1室は夫婦の寝室だった。

 当時、育ち盛りで荷物があふれがちな年齢の子どもが3人いるにもかかわらず、家には驚くほどものがなかった。「色があふれると狭く感じられるので」と器は白と決め、洗剤のラベルは取り外して使う。ソファは置かず、家具は必要最低限。広く使うための細やかな工夫が目立った。

 彼女はフルタイムの正社員で、帰宅後は台所に立ち続ける毎日だった。3人の子どもたちの塾や部活の帰宅時間がそれぞれ違うためだ。やってもやっても家事が終わらず、料理が好きなのに楽しむ余裕があまりない。「なんで3人産んでしまったんだろう」と深夜の台所で泣きたくなることもあると、漏らしていた。

 8年ぶりの再会は、『子どもが社会人になり、家族の状況も台所もちょっと変わったので、見に来てください』という応募のメールがきっかけだ。徹底的に色と所有物をしぼりこんだミニマルな暮らしはどうなっているだろう。興味津々で訪ねたら、以前の家の近くだが、番地が違う。

 家に入ると、家具も家電もぐっと増えている。リビングには布団が敷かれたままで、脱いだパジャマがあった。肝心の台所は、野菜や生鮮食品がなく、戸棚にはカップラーメンやお茶漬けの素が。料理も菓子作りも好きな彼女の以前の台所と、あまりに様相が違う。

 「ここは、ユーコさんという、夫の30年来のテニス仲間だった友人の家だったんです。今は主にうちの長男が寝泊まりしてます。休日の昼間にはこうして私も来たり、次男や長女も友だちを呼んだり代わる代わる使っています」

 ユーコさんが使っていた布団に、今は長男が寝ているという。起きたままの形のパジャマや毛布は彼のものだ。

 「ユーコさんががんで余命宣告を受けたとき、“私が死んだらこの家をもらってくれないか”といわれて。私は突然の申し出にびっくりしました」

 ユーコさんの親兄弟は他界しているものの、仲のいい従姉妹(いとこ)が近所にいるとのこと。血縁のある人がいるのになぜと、不思議に思った。

〈236〉「この家もらってね」。言い遺してあの女性(ひと)は逝った

自分にできる唯一のこと

 ユーコさんは離婚してひとり暮らしだった。子ども好きで、夫を介して家族ぐるみの付き合いになった。

 「うちの子たちを本当によくかわいがってくれて、運動会や卒業式にきてくれたり、一緒にテニスをしていました。子どもたちは夫とユーコさんのテニスサークルに入っていたので。でも、私とは親しいというほどの近さではなかったんです、5年前までは」

 2016年4月、夫が顔を曇らせて言った。
 「ユーコさん、婦人科系のがんらしい。手術して抗がん剤治療をするって」

 そうなると食事作りも大変だろう。ひとり暮らしだし、うちから歩いて5分。家族5人分も6人分も作るのは一緒だ。自分にできるのはそれくらいしかないから夕食を届けようと、彼女は思いたった。
 「息子たちはあの狭い2LDKにひっきりなしに友だちを連れて来てたから、毎日大皿料理です。少し取り分けて持っていくのはなんの苦でもありませんでした」

 できるときに、できることだけ。病人だからと特別仕様にせず、家族と同じものを届けると決めた。

 食事を玄関口で渡すと、「コンビニのごはんは味気なくて。手作りのご飯が食べられるのは本当にうれしいわ」と、よく言われた。食べた後は毎回「おいしい!」「ありがとうー」と絵文字満載のメールが届いた。

 「みそ汁とごはんにチキンの照り焼きとか、肉豆腐、カレーうどん。本当に家族と同じの、なんでもない料理なんです。でも、いつもとっても喜んで楽しみにしてくださいました」

 この頃から隙間時間に作り始めたレシピカードは、100枚を超える。オムレツ、鶏のパリパリ焼き、冷やしおでん、豚バラ大根。子どもやユーコさんの好きなレシピも入っている。これがあると、献立を考える時間を短縮できた。

 届けるうちに、時々上がりこんで話すようになった。

 次男がやんちゃで、また学校から呼び出し食らっちゃってと落ち込んでいると、「あの子は優しい子だから大丈夫よ」「心配いらない。ちゃんと育ってるよー」と、逆に励まされた。

 「自分が見えていない子どもの姿を教えてくれる、貴重な存在でした。そして、子どもたちにとっても、ユーコさんには、親に話せないことも話すことができる。味方になってくれる大人だったようです」

 2年8カ月。
 雨の日も、凍える寒い日も。夕食のデリバリーを続けた。

 仕事をしているので、週1回のこともあれば3回のこともある。「無理をしなかったから、続けられました」
 毎日でないとはいえ、仕事から帰ってもう一度家を出るのがおっくうな日もあったろう。肉親でもなかなかまねできることではない。自宅に帰っても家族の食事や片付けが待っているのだ。

 「おふたりに話があるの」と夫婦で呼び出されたのは亡くなる前年の春だ。がんが再発、余命宣告を受けたという。
 「私は親兄弟も子どももいない。だからこの家をもらってくれない? 近所の従姉妹も、あの人ならと賛成してくれているの」

 従姉妹とは夕食を届けに行くとき、たまに居合わせ顔だけは見知っている。ユーコさんの覚悟の表情から、生前整理をしたいのだとわかった。しかしどう答えていいか、言葉が出ない。「私たちは賃貸という形でも十分ありがたいと言いました。でももうご自分で強いお気持ちで決めてらっしゃったので。最後に、ありがとうございます、大切に使わせていただきますと答えました」

 ごちそうさまの絵文字メールが届かなくなり始めて半年後の2019年12月、息を引き取った。
 ユーコさんは従姉妹に通帳を預け、こうことづけていた。
 「私が死んだらエアコン2台を新しいのに取り換えてあげて」

 最後の入院前にトイレと給湯器も最新のものに換え、引き渡しの時にはハウスクリーニングをするように、すべての段取りをつけていた。余命宣告を受けながら、彼女たちが使う空間を整えることに心を砕いていたのだ。

〈236〉「この家もらってね」。言い遺してあの女性(ひと)は逝った

不意におとずれたひとり時間

 ユーコさんは物持ちが良いのと捨てられない性格だったらしく、1LDKのマンションを片付けるのに7カ月かかった。本、器、化粧品、紙袋……。段ボール100箱を処分した。

 遺品整理で、自家製の梅干しをもらった。「永遠に食べられないでしょうけれど」と、きれいに並べた保存容器のふたを大切そうに開けてみせた。

 昼間、時間をみつけると、この部屋を訪れる。
 自宅では、自分の好きな音楽をかけたことがない。子どもたちの誰かが、リビングでも何かしらかけているからだ。

 「遺品整理をひとりでしていたとき、実感したんです。ああ、ひとりって心地いいもんだなって。好きな音楽をかけたり、考え事をしたり。あっちの家では母や妻ですが、この家では私自身に戻れる。こんなに長い時間ひとりでいられるのは何年ぶりだろうと」

 ひとりになれる空間は、自宅に自室がない彼女にとってどれほど新鮮であったことだろう。

 「おかげで、ゆっくりこれからの人生について考えることができました」という彼女は、あと数年で定年を迎える。
 しばらくは子どもたちに委ねたい。相部屋でがんばってきた彼らの思うままに。タイミングがきたら空いている昼間、なにかに使おう。末っ子が高校卒業した頃から習い始めたクラフトの教室もいいし、ここでおにぎりを作って友達のお店の一角で売ってみたいと、考え始めている。

 「居場所がもうひとつできたことで、夢を持てるようになりました」

 ふたつの台所を持って1年半。最近気づいた。
 ――私はユーコさんから自由という時間をもらったんだ。

 だから売却することは一切考えていない。せっかくもらった自由を大切に使わせてもらおう。

 仕事以外の時間を、誰かのために使うことが多かった彼女の第2の人生がこの場所からもうすぐ始まる。

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