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東京の台所2
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〈237〉ワンオペ育児に介護。泣きたい日々に刺さった先輩教師のひと言

〈住人プロフィール〉
教員・49歳(女性)
戸建て・7SLDKK・京王井の頭線 富士見ヶ丘駅(杉並区)
入居8年・築年数18年
夫(大学教授・63歳)、長女(10歳)との3人暮らし(月〜金、2人暮らし)

    ◇

 長崎県で生まれ育ち、熊本、福岡の小・中学校で養護教諭をしていた。いわゆる保健室の先生だ。
 福岡ではもっと仕事を深めたいと、働きながら夜間の大学院で教育・臨床心理学を学び、9年かけて卒業した。

 教員生活16年目のある日、たまたま職場に来た保険外交員の女性から冗談交じりに見合いを勧められた。顧客に福岡市内の大学に勤務する男性がいて「保険金の受取人を探している」という。

 大学の教員という職業に興味を持ち、会ってみると驚くほど話が弾んだ。
 「論文テーマの話から研究費の申請の出し方まで。私も大学院に通ってたからか、専門分野が違う人の話は興味深く、惹(ひ)かれました」
 14歳上の彼は、定年までは福岡だが、ゆくゆくは実家のある東京に戻るつもりだという。“家を守らなきゃいけない長男だから”と。

 「私の両親は団塊の世代で、母は次男の嫁ということもあってか、あまり長男次男ということを考えたことがありませんでした。でも、夫の両親は80代。家のことを心配する彼の気持ちは理解できた。それに私は長崎を出てから熊本、福岡と行く先々で楽しく適応してきたので。もし、そうなったらなんとかなるわと思いました」

 2009年12月。出会ってから2カ月で結婚した。

義両親と同居時代、4年半娘とふたりで使った2階のミニキッチン。コンロはIH

想定外の同居生活

 2年後に女の子を出産。育休を経て職場復帰した翌年、夫を福岡に残し、ひと足早く母子で東京に越すことを決めた。住まいは夫の実家だ。

 「娘が幼稚園に入る年齢になり、教育環境も地方よりいいだろうと思ったのと、義理の両親のことも気になっていたので。彼は定年まで9年、私は42歳でした。東京都の教員採用試験は59歳まで受けられますが、挑戦するなら職務的にベストな時機だと考えたのです」

 無事採用が決まり、娘も19時まで預かってくれる幼稚園が見つかった。
 上京からひと月経った4月。出勤しようと靴を履いていると、玄関先で義父に言われた。
 「女が働きに出るなんて。しかもあなたは長男の嫁で、大学教授の妻なんだぞ」
 逃げるようにして、家をあとにした。

 実家では、女も男と同等にやりがいを持って働ける職を志しなさいと言われて育った。祖母もずっと仕事を持っていた。
 「自分はリベラルな家庭だったんだなと初めて気づきました」
 同時に、義理の両親とのギャップを埋めることはできないだろうと悟った瞬間でもある。

 その義父が半月後に心臓病で急逝した。気落ちした義母は、心身の衰弱が徐々に進んでいく。
 料理を手伝うと、食材がなくなったと妄想が始まった。
 ただ、どんなに厳しいことを口にしても、翌朝にはすっかり忘れている。「あ、病気なんだな。だったら言い返したりしてもしょうがない」。そう思うようにした。

 1階に義母、彼女と娘は2階で暮らした。生活時間も違うことから、義母の食事や世話は、近所に暮らす義妹が時々、手伝いに来た。
 「義父母の世代の価値観から言えば、長男の嫁の仕事なのでしょうね――」

 東京の初任校は浅草だった。最寄りの富士見ヶ丘駅から電車を乗り継いで1時間、娘の幼稚園や幼児教室への送迎を加えると1時間半かかる。部活の指導日はさらに遅くなる。退勤後は大急ぎで園に駆けつけた。

 「遠方の幼児教室から帰るときは、義母が寝ているのを見届けてから、ふたりで音を立てないよう2階へ上がって、ご飯を食べてお風呂に入って。そのうち義母のトイレの介助が必要に……。そんな生活なので、あのときどんな料理をして、どう食べていたか。あまり記憶がないんですよね。娘もきつかったと思います」

 2階には、ワンルームマンションにあるようなIHコンロのミニキッチンがついていた。18年前に建て替えたとき、将来を見越して夫があつらえていたものだ。
 「2畳しかないので、食器や調理器具は必要最小限。東京での新しい台所がこれか……と思いましたが、逆にこの空間に見合うだけのことをすればいいんだと開き直ることにしました」

 当時は買い物に行く時間がとれず、食材はほとんど宅配でまかなった。
 「あのころの料理は、生活のため。それと、お豆腐屋さんやお肉屋さんのお総菜など、地域のお店に救われました」

 振り返れば、福岡の夫と離れ、42歳で上京。みずから選んだとはいえ慣れない子育てに新しい職場、初めての満員電車通勤、そして義母との同居生活。
 与えられた環境の中でどうにか自分流に切り拓(ひら)いていこうというバイタリティーと、娘と一緒にお風呂に入り一緒に寝る時間の安らかさが彼女を下支えした。

 ただ、仕事は思うようにいかなかった。会議、学年の仕事、副担任の仕事。放課後に保健室に駆け込む子どももいれば雑務も次々ある。家庭でもいっぱいいっぱいの綱渡りのなか、面談で女性の副校長に言われた。
 「あなた、仕事できてないよね」

娘の弁当箱。毎朝4時半起きで作る

手渡されたバトン

 副校長は歯に衣(きぬ)着せずズバズバとものを言ういっぽう、なにかと気にかけてくれる人でもあった。「今日は早く帰ってあげなよ」「子どもの習い事ならここがいいわよ」。彼女もまた、育児と介護をしながら教員を続けてきたのであった。

 続けて副校長に言われた。
 「経歴に見合う仕事をしてください」

 はっとした。歩んできた道に誇りを持てと言われた気がした。働きながら大学院で学んだ日々や、熊本と福岡で子どもに寄り添ってきた20年の経験が生かされているのか。自分に問うきっかけになった。

 「そこからすぐに変われたわけではないのですが、その一言は杭のようにずっと胸にあります。学校を変わっても、娘が小学生になって手がかからなくなった今もずっと」

 2018年、義母が亡くなった。4年半の同居生活だった。
 「今思えば、穏やかな老夫婦の生活に突然、息子とはひと回り以上も離れた嫁と幼い孫が入ってきた。複雑な思いや戸惑いは私だけでなく、義母も同じだったんではないかなと」

 翌年、1階の広い台所をリフォームし、学校の同僚を招いたり、夫が帰宅したときは卒業生を招いたりと、新しい生活が始まった。

 東京での教員生活は8年目になる。
 介護も終わり、娘から手が離れる日も近い。

 あれからずっと、副校長の言葉にこめられたメッセージを考え続けている。――このままでいいの? もっと精進してはばたきなさい。

 福岡にいたころ、やりたかったことがあった。教員を育てる仕事だ。教師のなかには、病気と闘いながら働いている人もいれば、心が疲弊している人、かつての自分のように、育児や介護に追われて余裕をなくしている人もいる。
 長年子どもたちを支える仕事をしてきたが、先生たちを守るために自分にもできることがあるんじゃないか。あの大変な日々の経験があるからこそ、やれるんじゃないか……。

 「この10年、そんな夢やいろんなものをあきらめて、家族ファーストでやってきました。次の10年は、自分のやりがいファーストで、やりたかったことを深めたい。そして今度は私が、子育てや介護やさまざまな痛みを抱えて押しつぶされそうになりかけている教員の力になりたいんです。大切な言葉をくれたあの先生のように」

 単身赴任と子育て、教員の拘束時間の長さ、一部にいまだ残る「長男の嫁」「男は外、女は嫁」意識。時代の変わり目で結婚、出産、共働きを経験した彼女の現在の原動力は、“恩送り”だった。

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