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東京の台所2
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〈238〉今も忘れられない、あの美しい食卓

〈住人プロフィール〉
ウィッグ専門美容師・37歳(女性)
賃貸マンション・2LDK・西武池袋線 中村橋駅(練馬区)
入居1年・築年数38年
夫(会社員・38歳)、長女(8カ月)との3人暮らし

    ◇

 台所の壁紙は夫とふたりで貼った。レンジ台は、中古の机を黄色にペイント。換気扇横にはモロッコのアルミの水切りざるが吊(つ)り下がり、「窓の向こうは隣家が迫っていて景色が良くないので」とあちこちに鉢植えの緑が彩りを添える。
 台所は古いが開放感があり、じつに楽しげな空気に満ちていた。

 住人は現在育休中。女性用ウィッグ(かつら)専門の美容師を始めて7カ月目に妊娠がわかった。あと3カ月で復帰する予定だ。

 かつて12年間美容師をしていた。その後32歳から1年間ヨーロッパをひとりで放浪した。
 「超過労働に限界を感じて。じつはそのとき激しい性格の男性と付き合っていて、恋愛にも疲れていたんです……」。言いにくそうに旅の動機を打ち明ける。

 帰国後、器作家のギャラリーショップで2年働き現職に。その間に、紹介で知り合った男性と結婚、36歳で出産した。つまり帰国から4年で目まぐるしく人生が変化した。
 「子どもを生むことはないと思いこんでいたので、まさか自分がと今でも不思議な気持ちです。でも毎日がうれしい。20歳からひとり暮らしでインテリアや部屋をいじるのは好きだったのですが、料理は全然。結婚してから必要に迫られてするようになりました」

 器が大好きなのでショップに入った。にもかかわらず再び美容の世界に戻ったのは、「自分の技術で喜んでもらえる仕事がやりたい」と、一度離れてみてわかったから。
 「今の仕事はパートです。夜遅くまで働くのはどうしても避けたかったので。実際飛び込んでみると、お客さんからたくさんのものをもらう、ものすごくやりがいのある仕事だったんです」

 抗がん剤などの理由で脱毛する前に、客がウィッグを持参。病気を知られ周囲に気遣いをされたくないので「ウィッグを今の自分と同じ髪形にしてほしい」という依頼が多いという。
 よく照らし合わせながら正確に同じ髪形にカットすると、「来てよかった」と感謝され、ほっとして涙ぐむ人もいる。
 「私と同年代や年下の方もいらっしゃいます。髪がなくなるということがどれだけつらいことか。不安やつらいことはたくさんあるにちがいありませんが、みなさん前向きで明るい。どなたも本当に喜んでくださって。気がつくとこちらが元気や喜びをもらっているんです」

〈238〉今も忘れられない、あの美しい食卓

忘れられない光景

 夫は温和で、彼女のイライラやどんな怒りも「うまく受け流してくれるタイプ」とのこと。彼と0歳の小さな存在との日々が、徐々に彼女の価値観を変えていった。

 「若い頃は何かを成し遂げたいとずっと思っていました。今は子どもと過ごす時間、夜、夫と話すなんでもない時間をとても大切に感じる。日々の暮らしをていねいに生きていけたらそれでいい。それこそ素敵なことだよなって思うんです」

 料理は今もレシピを見ながら。「まだ加減がわからなくて」と笑う。
 冷蔵庫にはスライスしてあくぬきをしたごぼうや、ていねいにへたを削(そ)ぎ下茹(ゆ)でしたオクラの保存容器が並んでいた。
 「娘がいつ泣き出してもいいように、できるときに下ごしらえだけしておきます。私、料理にすごい時間かかっちゃうんで」
 慣れないなりに懸命に料理と向き合う新米母の奮闘が伝わってきた。

 ところで、料理をあまりしなかったのに器好きとは、やや珍しい気もする。
 「以前の美容室の向かいに器屋さんがあったんです。木工や金工、骨董(こっとう)なんかも扱う店で。かっこよすぎて入りにくく、店主が気難しそうに見えたので同僚は誰も寄り付かなかったんですが、私は気になってある日、扉を押したら……」

 お茶飲んでいきなよ。父のような年齢の店主があたたかく招き入れてくれた。以来、前を通ると声をかけてくれたり、仕事帰りに立ち寄ったり。20代から通い詰め、いつしか仕事の愚痴や人生の悩みを話すようになった。

 「見てるといろんな人の相談にのっていて。情に厚い、本当にあたたかなお父さんのような存在でした」
 旅に出るため仕事を辞め、帰省したときは実家の番号を探して電話をかけてきた。
 「いつでもつらくなったら帰ってきていいんだからな。正露丸持ってけよ」

 その店主が作家の展示会をするときに開く内輪のオープニングパーティーが深く印象に残っているのだという。
 「いつも私も呼んでくれたんです。器と料理、焼き物と木工、古いもの新しいもの、組み合わせ方がそれは本当に素敵で。器というよりテーブルコーディネート全部が美しかった。気負いなく、サラダや簡単な炒めものをざっくりとのせるだけなんですがおしゃれで、器の存在感も引き立つ。食卓というのはこうやって楽しむものなのかと、まったく追いつけませんが、あの食卓が胸にあります」

 彼女はきっと、器や食を通して生活を楽しむことを教えられたのだろう。
 少々遠回りをしたが、たくさんの出会いと経験が日々の喜びに気付けるいまの彼女をつくっている。この台所を見てなんだか楽しそうだなと思った理由が少しわかった気がした。

〈238〉今も忘れられない、あの美しい食卓

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