東京の台所2
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〈241〉こんなはずでは。破綻しかけた夫婦の転居録

〈住人プロフィール〉
自営業(グラフィックデザイナー)・47歳(女性)
分譲マンション・2LDK・副都心線 雑司が谷駅(豊島区)
入居4年・築年数52年・夫(会社員・55歳)との2人暮らし

    ◇

 2014年夏、恋人の母親がくも膜下出血で倒れ、1週間で急逝した。交際3年。彼が母のために買ったという井荻の家で、3人でよくご飯を食べた。彼女が餃子(ギョーザ)や天ぷらや巻きずしを作ると「もう私は面倒でできないから」と、とくに喜ばれた。
 「物静かで小食で、めちゃくちゃきれい好きな人でした」
 ショックだったが、彼女以上に茫然(ぼうぜん)自失となったのが彼だ。

 「お母さんとふたりで暮らしていたので、受け止めきれなかったんでしょう。ひとことでいうと、機能停止。だからまだ結婚もしていないのに、病院に泊まり込んで看(み)取りと葬儀にまつわる裏方をしました」

 親戚一同から、結婚して彼を支えてほしいこと、義母が彼女との結婚を望んでいたと聞いたことから、自然な流れで婚姻届を出した。ひとり暮らしを楽しんでいた港区・麻布十番から杉並区・井荻へ。彼女40歳、彼は48歳だった。

 「夜中に友達と近所に飲みに行くような自由な生活がガラリと変わり、街の雰囲気も違うのでなかなか慣れませんでした。それに、台所は義母仕様。インテリアやリフォームなど自分色に変えるのもしのびなくて、1年くらい私の荷物の入った段ボールが積み上がったままでした」

 夫はなかなか気力が出ず、会社では滞りなかったが家では心ここにあらず。片付けもせず、部屋が日に日に荒れていった。

 「お義母さんの部屋はそのままでもいいから、せめて私の荷物が入るよう自分の部屋だけでもとたのんでも、腰が上がらない。だんだん、自分は何のために結婚したんだろう、この荒れた家で一生を過ごすのかと思ったら気が滅入(めい)ってきて……。離婚という文字が何度も浮かびました」

 歳(とし)を重ねた大人同士の結婚だからこそ、自分が心地良いペースや踏み込めない領域がある。遠慮もある。彼の意向を無視して部屋を片付けることはできなかった。

 不動産広告を見るのが趣味の彼女は、2年後思いきった提案をした。
 「古いマンションを1部屋買おうと思うの。人に貸したら収入が入ってきて将来のためにもいいし、いつかふたりで住むのもいいでしょ?」

 彼は驚き、一日寝込んだあと言った。「君がそうしたいなら買いなよ」

夫の実家のやかんは緑とのことだったので合わせてみた

別宅購入を決意

 彼女はそのときの心内をこう明かす。

 「自分の不動産があれば、なにかあったときになんとかなるという気持ちも正直ありました。だから名義は私にして、彼から一部、借金をしました。でも、人柄や相性じゃなく、家が理由で離婚するのは変だなって思ったんです。お義母さんと暮らした家をいじれない夫の気持ちもわからなくもないし、変わってと言っても40年生きてきた人はそう簡単に変わらないもの。だったら、私が変わればいいやって発想を切り替えたんです。誰かに幸せにしてもらうんじゃなく、自分で幸せになろうって」

 実際、不動産を買ったことで、想像以上に大きな安心感が生まれ、気持ちが楽になったらしい。フリーのグラフィックデザイナーの彼女は、滅入る日々で自分も自律神経に支障をきたし始め、仕事の依頼を断ることが増えていた。家賃収入は大きな自分のよりどころになった。

 「店子の方はたまたまプロダクトデザイナーさんで、訪ねたときとても上手に暮らしてらしてうれしかったです」

 結婚3年目。一見元気だが、内心まだ悲しみの底にいてふさぎ込んでいる夫に今度は「この家を売って越そう!」と切り出した。趣味で毎日チェックしている不動産サイトで、リノベーション前のまたとない物件が出た日のことだ。

 「ええー、まだ住めるのに」と言う夫に、「お義母さんのものは全部持っていっていいから。この物件は古いけど立地がよくて資産になるから」「これは今あるものの否定ではなく前向きな選択だから」と、必死にプレゼンをした。

 半ば無理やり説き伏せて転居したのは、義母の思い出に囲まれ何も片付けない、時が止まった空間の中で日々を重ねたら、夫も自分も壊れると思ったからだ。

 ところが、あれほど渋っていた夫は、目の前が公園というベランダで初日、「気持ちいいなあ!」と本当にうれしそうにビールを飲み干していた。

 懸念の義母の荷物はどこに収めたのだろう。
 「それが、お義母さんが散歩に使っていた帽子と靴、マグくらいしかもってこなかったんです」

 引っ越し作業で夫は進んで断捨離にうちこみ、新しい住まいでは、目に見えて日に日に元気になっていった。
 「以前は、ここつきあってよと誘っても、“今日は行かない”ってつれなかった。越してからは近所へ散歩や買い物に一緒に行くようになりました」

 彼自身、母から卒業しようと思ったのではないかと、彼女は分析する。少なくとも引っ越しが大きなきっかけになったのは間違いない。
 気がつけば、自分の体調もぐんとよくなっていた。
 家は人を変えるんだな。
 引っ越し好きの彼女はしみじみと実感した。

 形見の品は今、夫のベッド下に収められている。

入居前は、台所とダイニングの間に仕切り壁とドアがあった

三度の転居と暗闇デート

 いろんな家の間取り図を見ながらお酒が飲めるタイプですねと水を向けると、「まさにそうです!」と彼女はひざを打った。

 というのも、緑の見えるベランダのリノベマンションに暮らしたのもつかの間、生活音を気にする階下の住人からのクレームに悩み、三度目の転居を決意したからだ。今回も雑司が谷の好立地に、業者がリノベする前の古いマンションを見つけたのがきっかけだ。

 「引っ越したいんだけど」
 「あ、いいよ」
 今度は二つ返事だった。なぜあの時、すぐオッケーしてくれたの?と今もたまに尋ねる。そのたび彼は笑いながら答える。
 「だって言い出したらきかないじゃん」

 台所の死角には、彼が好きなパントリーをあつらえた。料理や家事の一切をしないが、食品がずらりと並んだところから選び取るのが好きなのだという。背の高い彼女は自分の身長に合わせ、シンクの高さを85センチに。キッチンツールやカウンターの器がめだちすぎないよう、壁のキッチンパネルをグレーにした。
 酒を飲むのが好きなふたりは、ドリンク専用の小型冷蔵庫をダイニング側に設置。好きなときにビールやワインを取り出せる。

 在宅ワークの彼女は毎日、夫を目白駅まで迎えに行く。そしてふたりでビールを買い、遠回りをしながら散歩気分で帰る。
 「暗闇で並んで互いに前を向いて歩くと、不思議と何でも話せるんですよ。家ではふたりともスマホばかり見てろくに話さないのにね」

 早稲田、おとめ山公園、高田馬場。歩こうと思えば四方に行けて、商店街も緑もある便利な立地を気に入っている。お気に入りの小さな豆腐屋やパン屋をひとつずつ増やしていくのも楽しい。

 「義母の家にいた頃、目に見えて落ち込んでいるわけじゃないけれど何事にも気力がなかった。住まいを変えることでふたりとも健康になったし、彼の機嫌もいい。私にとっては納得のいく心地いい空間を選ぶことは、人生においてとても重要なファクターのひとつなのです。だから度重なる引っ越しを一度も後悔していません」

 ところで、グレーで統一した台所に一点、深い緑色のやかんが気になった。
 「夫の実家で小さな頃からやかんが緑色だったと聞いて。じつは私はあまり好きではない色なんですが、少しでもお義母さんの思い出を引き継げたらいいなと思って……」

 壊れかけた関係を紡ぎ直す過程で、小さな我慢や思いやりは大きな役目を果たす。

 仲がいいんですねというと、いえいえと手を横にふる。
 「毎朝お仏壇に“お義母さんはなぜ息子に家事を教えなかったんでしょーかー”ってわざと彼に聞こえるように唱えてますから」

 彼はくすくすしながら聞き流しているらしい。
 自分のことを自分で幸せにしようと思える前向きさは、たぶん彼にも伝染(うつ)っているに違いない。

新たに家具は買わず、収納棚はカウンターの残りのキッチンパネルを流用するなど工夫

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