東京の台所2
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〈242〉「東京でやっていける気がしない」。彼を救った野菜炒め

〈住人プロフィール〉
会社員、料理研究家・39歳(男性)
賃貸マンション・1LDK・田園都市線 三軒茶屋駅(世田谷区)
入居3カ月・築年数7年・ひとり暮らし

    ◇

 大分から関西の私大文学部に進んだが、就職氷河期どまんなかの卒業で、学科卒業生で3月に正規雇用が決まっていたのは60人中、彼を含めて5人だった。一部上場の誰もが知る大企業。いわく「奇跡の内定」に、勇んで上京すると、今でいう“ブラック”な現実、激務が待っていた。

 「毎日終電。その時間さえなくてサウナに泊まることもありました。なにより、入社してヨーイドンをしたはずが、すでに同期のなかで最初から学歴や生まれ育った環境による抗(あらが)いがたい格差があるのを感じて、それが堪(こた)えました」

 原宿、ライブや演劇、ファッション。おない年ながら「雑誌など紙の中ではなく肌感覚、空気で知っている」こと、「見てきた文化の違い」に打ちのめされた。

 それでも睡眠3、4時間で必死に働くうちに、気づいたらあれほど入社しただけで誇らしく思えていた仕事が、楽しいと感じられなくなっていた。
 「自分の中がすっからかん」に思えた社会人7年目。彼は思いがけずカメラによって救われる。

 「東京でやっていける気がしない。仕事もおもしろくない。でも趣味の写真だけは、撮ると人に喜ばれて。あるとき写真雑誌主催の勉強会に参加したら、作品を評価されたのです。あれは本当にうれしかった。公募制の写真展に参加すると友だちも増えた。彼らとは仕事や肩書や経験に関係なく、純粋に写真を通して対話ができた。写真というものに急速にのめり込んだ。僕の最初のブレークスルーです」

スノーピークのテーブルは料理の作業台にも撮影台にもなる

作って撮って食べる。幸福なトライアングル

 人物写真など趣味の写真に熱中しながら、交友関係を広げた。
 31歳で結婚。インテリア関係の会社への転職を経て、35歳で独身に戻った。

 「いま思えばまだぐらぐらしていて、自分がなかった。人も自分も信じられなくなり、離婚直後は心を壊して入院。僕、思春期から人に愛されている感を一度も持てたことがないんです。両親に否定されて育ったからか、自己肯定感が薄い。人生で、まともな自我が芽生えて、自分を好きになってもいいかなと思えたのは、退院してシェアハウスで暮らし始めてから。35歳過ぎなんです」

 なにがあったのか。
 写真のため、不意に色のきれいな野菜を撮りに行こうと青山のファーマーズマーケットにでかけた。出店している有機農家のご夫婦と話しながら、色鮮やかな紅芯大根や白くつやつや光るかぶを撮った。その会話も楽しく心安らぎ、思わず美しい野菜を買って帰り、シェアハウスの台所で炒めものを作った。

 「料理とも言えないような、切って炒めただけのきんぴらもどきでした。なのに彩りがよく華やかで、おいしくて。なんの取りえもないと思っていた自分でも、なにか生み出すことができるんだとものすごく感動して幸せな気持ちになったんです」

 料理の間は無になり、できあがって写真を撮ると達成感がある。次はこう撮ろうと想像力も刺激される。写真を通して猛スピードで料理の世界に引き込まれていった。

 「シェアハウスの仲間はもちろん、人を招いて食べるとまた楽しくて。メシを通していろんな人と話すのってこんなに楽しいんだなと初めて知りました。料理はそれまでほぼ未経験でしたので」

 基礎を学べる料理教室や、料理のスタイリング教室にも通い始める。毎日台所に立ち、2日に1回自分でとった和だしを1リットル使う自炊生活に。
 コーヒー豆屋、農家など、出会いも有機的につながってゆく。

 食がもたらす化学変化は、彼に欠けていたピースをかっちり埋めた。それは、「おいしいごはんを生み出す」経験から育つ自己肯定感である。

 3年後の2020年、食のブログを始めた。
 「レシピを書いて残す。写真にしてアーカイブに残すことは大事だなと実感したので。自分のプラットフォームも欲しかったんです」

 ブログをきっかけに、出張料理や料理写真教室開催、テレビ出演も果たした。インスタやユーチューブも始め、3カ月前に越してきたばかりというマンションの台所には、黒い有孔ボードでDIYした調理道具のハンギング収納や、軽くて丈夫なキャンプ用品を活用したテーブルとともに、撮影機材がひしめきあっていた。
 今は明確に、食をライフワークにしていこうと決めている。

 空っぽだと思っていた自分を、満たしたのは自分だ。
 写真と食はきっかけにすぎない。どれほどどん底でも、根底に「変わりたい」という諦めない気持ちがなければファーマーズマーケットには行かないし、1度うまく作れたとしてもその後も作り続けて人に振る舞ったりしなかったろう。

 料理を始めてから「何事も人と比べなくなった。比べてもきりがないってわかりました」と語る。手料理にひとつとて全く同じものはない。彼がそう気づくのは自然な流れに思えた。

 比べることをやめたら、きっとどんな街でも楽に自分らしく生きていける。
 東京は比べながら生きたらとても苦しい街だけれど、今も彼が交流があるというファーマーズマーケットの農家のように、まったく育った環境や価値観の違う異業種の人との素敵な出会いもいくらか多いはず。腕ひとつでおいしいものを生み出せる肯定感を礎に、これからも存分に東京暮らしを堪能してほしい。

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