ほんやのほん
連載をフォローする

「今だからこそ」めくる130ページ。日常が消えたとき

撮影/馬場磨貴

『沈黙』

この前、ロバート・レッドフォードの俳優引退作「さらば愛(いと)しきアウトロー」を見た。ストーリーや映像の撮り方、俳優陣の演技などが見事で、まさに引退作にふさわしい出来栄えだった。だが残念ながら、かつて「明日に向かって撃て!」や「スティング」でその美貌(びぼう)を世に知らしめていたロバート・レッドフォードにも、老いの影響を感じずにはいられなかった。この映画は2018年の映画だから、その時ロバート・レッドフォードは82歳だった。クリント・イーストウッドは90歳を超えた今もまだまだ活躍中だが、年齢を考えたら引退の決意もさもありなんといったところだろう。

一方、文学の世界に目を向けてみると、今年はほぼ同年代の作家たちの動きが目立つ。覆面作家のトマス・ピンチョンは今年84歳で、今回紹介するドン・デリーロは今年85歳になる。

もっともピンチョンの新作『ブリーディング・エッジ』は、邦訳こそ今年出版されたが原著の発表は2013年だから76歳の時の作品だ(それでも十分すごいが)。それに比べると、デリーロの新刊『沈黙』は昨年の10月に原著が発売されたので、84歳にして新作を発表したということになる。

ピンチョンの『ブリーディング・エッジ』が700ページ近くあるのに比べたら、『沈黙』は130ページほどの短さなので、翻訳にそれほど時間がかからなかったとしても不思議ではないが、それよりも今のこの世界情勢だからこそ原著の発表から間を空けずに翻訳を出したと考える方が妥当だと思えるほど、『沈黙』は今の世界の状況を予見していたように思える一冊である。

物語の舞台は2022年2月。ジムとテッサの夫婦が乗っていた飛行機が飛行中に突如停電を起こしてしまう。飛行機は不時着し、2人はけがを負いながらも自宅へと向かう。時を同じくして自宅でスーパーボウルの観戦をしていたマックスとダイアンの老夫婦も、突如ネットやテレビや電話などのもろもろのインフラが途絶えてしまうことに驚く。原因は不明だが、世界規模で停電してしまっているようだ。ジムとテッサと、マックスとダイアン夫婦は隣人同士であり、2組の夫婦はこの状況に不安を覚え、一緒に過ごすことにする。そこにダイアンのかつての教え子であるマーティンも加わって、というのが大まかなあらすじ。

急にライフラインやインフラが途絶えてしまった状況に置かれた5人は、それぞれの方法で解決が訪れるのを待つことにする。マックスは中断してしまったアメフトの試合の続きを妄想し、試合のナレーションをひとりごつ。マーティンは敬愛するアインシュタインの言葉をことあるごとに引用し、ダイアンはそれに反応し騒ぎ立てる。ジムとテッサ夫妻はこのような状況下でも色欲を抱えながら、家に帰ることばかり考えている。過ごし方はまさに五者五様というべきで、今までの生活が一変してしまった瞬間の身の振り方がどこか滑稽に描かれている。

この作品が2020年に発売されたということは間違いなく現在の世界情勢を鑑みて書かれたのだろうと思っていたが、訳者あとがきによると実際にはコロナウイルスが世界規模で広がる前に書き上げていたという。たしかに直接的にコロナウイルスについては言及していないものの、登場人物のひとりであるテッサは作中でこんな言葉を述べる。

「次は何が来るかしら?」テッサは言う。「私たちの認識の片隅には常にあったわ。停電に、テクノロジーの緩やかな衰退、どこかがだめになると、また別のどこかがだめになる。私たちはそれが何度も起きるのを、この国でも他の場所でも目にしてきたわ。嵐に、山火事に、避難、台風、竜巻、旱魃(かんばつ)、濃霧、大気汚染。地滑り、津波、川の消滅、家屋倒壊、ビルの完全な崩落、汚染された空。(中略)誰もの記憶の中に生々しく残っている。ウイルスに、疫病。空港の発着ロビーを進み、顔にマスクをして、街中には誰もいなくなった」

p.99

この作品では停電という形で描かれているが、結局のところそれらの厄災は様々に形を変えて我々の身に突如として降りかかってくる(きた)のである。それを認識しつつも気づかないフリをして。上記のテッサの言葉のあとに、マーティンはこう述べる。

「僕らがしなくてはならないのは、僕らの状況を考えることだけです」彼は言う。「外にあるのが何であろうとも、僕らはまだ人間ですし、文明という人間の断片ではあります」

p.101

このせりふの通り、我々はどのような状況に陥っても、築いてきた文明という累積がある。厄災という状況をのみ込み、その上で人間としての活動を続けていくしかないという力強さがこのせりふからは感じられる。

ドン・デリーロは今までも様々な社会問題を小説の中で提起してきた。この小説もまさにその類型に属するだろう。だが、単に物語として提示して完結するのではなく、その上で読み手に対してどのように思索するのかの手がかりを与えてくれているように思える。読む人によって捉え方が異なってくるような余白を多く持った小説でもある。この小説を読めばきっと、自分の認識や、私たちの置かれた状況についていま一度考えを巡らせてみたくなるはずである。

「今だからこそ」めくる130ページ。日常が消えたとき
#
PROFILE
松本泰尭

まつもと・やすたか
二子玉川 蔦屋家電 人文コンシェルジュ
大学卒業後、広告代理店などメディア業界で働いたのち、本の仕事に憧れて転職。得意分野は海外文学。また大のメジャーリーグ好き。好きな選手はバスター・ポージー。

REACTION

LIKE
連載をフォローする

SHARE

  • LINEでシェア

FOR YOU あなたにおすすめの記事

POPULAR 人気記事

※アクセスは過去7日間、LIKE、コメントは過去30日間で集計しています。

RECOMMEND おすすめの記事

&MEMBER限定の機能です

&MEMBERにご登録(無料)いただくと、気に入った記事に共感を示したり、コメントを書いたり、ブックマークしたりできます。こうしたアクションをする度にポイント「&MILE」がたまり、限定イベントやプレゼントの当選確率が上がります。

&MEMBERログイン

ID(メールアドレス)
パスワード

パスワードを忘れた方はこちら

&MEMBER登録はこちら

&MILEの加算アクション

  • &MEMBER新規登録:100マイル
  • 記事に「LIKE」を押す:10マイル
  • コメントの投稿:30マイル
  • 自分のコメントに「LIKE」がつく:10マイル
  • *今後、以下のアクションも追加していきます

  • 朝日新聞デジタル有料会員の継続:100マイル
  • ログインしてサイト訪問:10マイル
  • アンケート回答:30マイル
  • 「朝日新聞SHOP」での購入:50マイル
  • イベント申し込み:50マイル

&MILEの獲得数に応じてステージがあがり、ステージがあがるごとに
&MEMBER限定のイベントやプレゼントの当選確率が上がります。詳細はこちら