このパンがすごい!
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「主張せず、そこにいればいい」 山の中の薪窯から生まれる優しいカンパーニュ/キサン製作所

Google マップを見て驚いた。山地を表す緑色の真ん中にポツンと立ったピン。こんな辺鄙(へんぴ)なところにパン屋がある。一体どんなパン屋だろう。そう思うといてもたってもいられず、私は車を走らせたのだった。

うっかり店の前を通り過ぎてしまった。それほど、たたずまいはただの民家。蔵のある一軒家の門に手書きで「キサン製作所」とだけ。築山(つきやま)のある庭を通り抜け、見知らぬ人の家を訪ねるような緊張感の中で玄関のドアを開けると、女性がたったひとり、ごつごつとしたパンを売っている。彼女が、薪窯でパンを焼く大森梓さんだった。

客の誰もがよもやま話をして帰っていった。この木造の家屋に宿った落ち着きと、大森さんの木訥(ぼくとつ)さ、おだやかさに心を解きほぐされてのことだろう。

カンパーニュ
カンパーニュ

買ってすぐ食べた「カンパーニュ」は、そんな彼女自身に抱いた印象とよく似ていた。浅めの焼き色から想像がつかないほどの味わい深さ。がりっとした皮から滲(にじ)みでるコンソメっぽさ。玉ねぎのような風味、そして甘さ。重なりあうと、オニオングラタンスープのような印象を結んだ。しっとりした中身もまた、コンソメスープに浸したパンを思わせた。ルヴァン種ならではの酸味も後味をすがすがしく清めてくれる。

「やさしめのカンパーニュだと思います。食卓に上ったとき、カンパーニュが主張せず、そこにいればいい。食べ物をのせてお皿になるぐらいのパンでいいかなと思っています」と大森さん。

くるみぶどう
くるみぶどう

手ごねでパンを作る。おにぎりのようにやさしく中身がほどけるのはそのせいだ。たくさんのクルミとレーズンを手で混ぜ込んで「くるみぶどう」を作るのは、慣れない頃特に骨が折れたという。そのかいあって、本当においしい。特に薪窯に触れてぶ厚くなった底の部分。がりがりとして、焦げそうになったクルミもレーズンも皮もとても甘い。

薪窯を見せてもらった。彼女自身が耐火れんがを組み上げたそれはこの古い家屋にぴったりと馴染(なじ)んでいる。できあがりに丸々3カ月もかかったという。一から作り方を調べ、「本当にパンが焼けるのだろうか?」という不安と闘いながら作りあげた。大人がひとり窯の中に横になれるほどの奥行き。その巨大な体躯(たいく)が溜(た)めこんだ熱によってすばやい時間で焼き上げるから、皮はばりっと中はしっとりとしたパンが焼けるのだ。

YouTubeチャンネル 「パンラボ」

手作りは窯だけではない。窓を作ったり、漆喰(しっくい)を塗ったり、タイルを貼ったり。お母さん、お父さん、お姉さん、妹さん。家族で協力しあい、古い家をパン屋として蘇生させた。この家を探し出したのもお母さん。いつかは座敷を利用してパン屋兼喫茶店にしたいというのが大森さんとお母さんの、近い将来の目標だ。

大森さんがこの古民家にたどりつくまでの数年は大冒険だった。専門学校を出て東京のパン屋で働きはじめたが、慣れない都会での一人暮らしと多忙を極める仕事のはざまで苦悩し、1年で行き詰まってしまった。沖縄への移住で活路を見いだそうとした。はじめはスーパー内のベーカリーに勤めた。その頃、偶然食べた、薪窯パン屋「宗像堂」のパンのおいしさに驚き、門を叩(たた)いた。楽しさのあまり夢中で働いているうちに3年が過ぎた。

店内風景
店内風景

宗像堂を卒業し、「なにか惹(ひ)かれて」フランスへと旅立った。農業とパン屋の両方を行う“農家パン屋”として名高い「シャント・ラ・ヴィ」(バルバリー農園)に住み込みで働いた。パンを作り、畑仕事をし、みんなの食事も大森さんが作った。自給自足。小麦も薪も、電気さえも自分たちで作る。食べるのはパンとりんごと野菜、ときどき魚の缶詰とチーズというほぼ菜食生活。

「あるものだけで暮らす」

それが、「シャント・ラ・ヴィ」の当主であるセルジュのポリシー。大森さんは次第に生活に馴染み、体調もよくなり、なにかがほしいと思うこともなかったという。それを体感したのは、フランス修業の大きな成果だろう。

大森さんのおやつ。縁側で食べる、余り生地を焼いたぶどうぱんとほうじ茶
大森さんのおやつ。縁側で食べる、余り生地を焼いたぶどうぱんとほうじ茶

セルジュのような暮らしに近づきたいと、家の隣の畑で、無農薬で野菜や果樹を育てている。私は大森さんについて畑にいき、ナイフで切り取ったばかりのカリフラワーを、洗いもせず口にした。みずみずしく、さわやかで、ゆっくりと甘さがにじんできた。本当の野菜の味だった。

大森さんは自分で焼いたパンと採ってきたばかりの野菜で食事をとり、食べ飽きることがないという。そんなふうに、ここにはほんのわずかな、自らの手と自然が作りだしたものしかないにもかかわらず、実に豊かなのである。

「星を見ると本当にきれいだなって。ずっと月を見ていることもあります」と大森さんは言う。

大森梓さん
大森梓さん

自然の中では、都会とちがって、果てしない消費やネットで時間を埋めなくても、そこにいるだけで満たされ、幸せなのだ。キサン製作所でそう気付けただけで、はるばるこの山の中のパン屋にきてよかったと思えた。

大森さんは、東京のパン屋で修業をしていた頃、朝、店の表に出て、「OPEN」と書かれた札をひっくり返すときに空がひどく小さく見えたことを思い出すという。それに比べ、この里山から見上げる空はなんと大きいことだろう。

いまの暮らしは? と尋ねると「最高だとつくづく思います」と彼女は答えた。

キサン製作所
栃木県佐野市仙波町3141-1
080-2309-6212
11:00~15:00(売切れ次第終了)
月・火曜・第2・4日曜及び不定休

フォトギャラリーへ(写真をクリックすると、くわしくご覧いただけます)
「このパンがすごい!」紹介店舗マップ(店舗情報は記事公開時のものです)

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