東京の台所2
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〈244〉夫を看取った83歳。初めてのワンルーム暮らしは淡いピンクで統一

〈住人プロフィール〉
83歳(女性)
分譲マンション・1R・東西線 門前仲町駅(江東区)
入居3年・築年数49年・ひとり暮らし

    ◇

 マンションの扉を開けると、“83歳、ひとり暮らし”という記号から想像していた住まいとは180度異なる世界が広がっていた。
 当のご本人も、リフォームを終えた新居に初めて訪れたとき、思わず声が漏れたそうだ。
 「えっ。こんな派手なところに住むの?」

 49歳と57歳、ふたりの娘が3年前、ひとり暮らしの母のために用意した部屋はサーモンピンクが基調の、優しく甘いインテリアでまとめられていた。

 壁紙はモダンなフラワープリント。ベッドカバーは淡いピンクのコットン。小さなダイニングテーブルには、可憐(かれん)な白いレースのクロスがかかっている。
 娘たちが、海外のスタイリッシュなシニアのインテリア写真集に触発されて、コーディネートしたという。

 「でもね、暮らしていくうちにすぐ慣れて。年を取るとどうしても細かいところに目が届かなくなってくすんだり汚くなったりしがちだから、せめて色だけでも明るくっていう娘たちの気持ちがうれしかったです。たしかにこれ見ると元気が出るんですよね」

 小柄な住人は、取材に緊張した面持ちで語る。料理好きな母の台所をぜひ、と代理で応募してきたのは長女だ。
 こんな狭いところでごめんなさいといいながら、母は少しずつ笑顔が増えていった。

 50年住み慣れた東京郊外の団地から、江東区のマンションに移り住んだのは2018年。認知症の夫を看(み)取ったことがきっかけだった。
 とはいえ娘が住んでいること以外、縁のない区。長年の付き合いの団地仲間も大勢いる。ひとりでワンルームマンションに暮らすことなど、考えたこともなかった。

 「私が住みだした頃の団地は、抽選に当たらないと入れない花形で、友達も思い出も荷物もたくさんありました。でも、夫が亡くなり、友達も病気になったり、亡くなったり。いつまでも昔のように集まれるわけではないんですよね。そんなとき骨折で入院して。高齢者のケアが充実している江東区を娘たちから勧められ、踏ん切りがつきました」

 そこから、所有物の処分という大作業が始まった。

器はすべて処分してきた。こちらは転居してから買いそろえたもの

60代と70代で変わる交友

 長女と次女は振り返る。

 「ゴミがトラック1台では収まりませんでした。着ない洋服が200枚、未使用のカビ臭いタオルが100枚。シーツや布団のほか、細かなものが天袋までぎゅうぎゅう詰まっていました」
 「ワンルームに越すと決まっていたので、ガスコンロはIHに、冷蔵庫もミニサイズに買い替え、器も台所道具もいったんすべて処分。施設に寄付したり、粗大ごみに出したり大変でした」

 母は最初こそもったいない、まだ着られると拒否したが、だんだん整理を娘たちに委ね始めた。
 「腹を決めるも何も、現実に入らないんですもの。しょうがないです。夫の遺品は、彼の日記と50年間愛用していたマグしか持ってきませんでした」
 団地での日々、彼との思い出は、大好きなあの街に置いてきたらしい。

 今、彼女はしみじみと語る。
 「お友達との別れはつらかったけれど、あのときこちらに来てよかったなってつくづく思うんです。コロナでみんな外に出られなくなっちゃったし、子どもと同居している人でも遠慮して言えなかったり、意見が合わなかったり。どんな人にもそれぞれ愚痴や悩みごとはある。私はたいてい聞き役だったけど、みんなといい関係を続けるためには、そこから少し距離を取ることは必要でした。離れてわかる良さもありますし」

 団地に入れた頃、ご近所と家族構成や年収は似たりよったりだった。だからこそ目に見えない競争心やプライドがあり、「若い頃は、胸を開いて話せないところもあった」という。
 しかし、60をすぎるとみな子どもが巣立ち、夫たちも定年を迎え時間や心のゆとりができる。

 「お昼すぎから夫婦数組で毎日行きつけのカフェに集まってはおしゃべりしていたんです。若い頃は張り合ったりしても、定年過ぎるとみな笑い話になるのね。夕方は食事に招いたり、招かれたり。でも70をこえると、病気や家族の思いの行き違いや弱音がね。いろいろ出てくる。そんなタイミングでした」

緊急事態宣言以降、脳トレのため毎日俳句を詠んでいる

火気のない台所への抵抗感

 今の部屋には、ガスコンロと浴槽がない。前者は火の事故防止、後者は転倒防止のためだ。入浴は椅子に座りシャワーですますが、料理上手の彼女は、オール電化の調理への抵抗が大きかった。

 「長年の料理の勘がありますから。電気調理鍋なんて任せっきりでできるのか。そもそも、そんなに楽していいのかしらと」

 娘が調達してきた電気料理鍋は、添付のレシピブックのメニューをすべて作った。「毎日、もう300回は使ったかな。デジタル表示が出るし、機械から声が出て教えてくれるの。それが意外に励みになるんです」とのこと。

 元来好奇心が旺盛で、研究熱心な質(たち)が功を奏した。
 「やってみたらこんなに便利で安心なものはないわって。1回作ると次はこうしようかしらと興味がつのって、今では友達みんなに勧めています」

 今までは敬遠していた市販の総菜品も、試しに買ってみた。
「あら、私が作るよりおいしいじゃないって。今のお総菜って本当においしそうだし、1個から買えて便利なので、コロッケはよく買います。ひとり暮らしなので、残り野菜もとっておくと、ひとりぶんなんてすぐ一品できちゃう。娘たちも、前と違ってしょっちゅう会えるし、一緒にご飯を食べたり持たせてあげたりして、料理は張り合いになっています」

 どうしても置く場所がないので、仏壇を玄関脇の収納棚上に設けている。どこへ行くにも「無事を見守ってちょうだいね」、帰宅したら「無事に帰れました、ありがとう」と手を合わせる。

 夫は車の営業マンで、全国売り上げナンバーワンになり、書籍もある。得意先への接待で、子育て時代は毎晩帰宅が0時過ぎ。帰らずに翌日出社することも多かったそうだ。「いわゆるモーレツサラリーマンでした」

 こんな素敵な部屋を用意し、あたたかく見守る娘がいて、優しい夫とも添い遂げられた。順風満帆の人生ですねと言うと、いいえ人生はそんなに甘くないですよと笑う。

 若い時分、ある日突然愛人が発覚、夫を取り戻すため、幼い長女の手を引き、乗り込んだ日もあったそうだ。
 「今じゃ笑い話ですね。お隣さんに打ち明けると、“そんな化粧じゃだめだ!”ってけしかけられて、ビシビシに決めてって。でも会ったら、悪い人じゃなくて、まあいいかーってなっちゃって。戦争でご両親をなくされて、寂しい方だったの」

 愛人は最後に「ご迷惑をおかけしました」とあいさつに来た。
 「幸せになってほしいと思って、私あげるものなかったから、自分がブラウスにするつもりだった生地をさしあげたの。変でしょう? この話をするともっといじめてやればよかったのにってみんなに言われるの。……あの方、いまもどこかでお元気でいてくれるといいんだけど」

 夫は、長期休みは正月も含め接待のゴルフやスキーに出かけて戻らず、子どもの面倒をろくに見なかった。それでも車が1台売れると、我がことのようにうれしく、一緒に喜びあった。
 高度経済成長期の屋台骨は、そんな日本中のモーレツ社員と妻たちが支えていたんだろうと思う。

 晩年、まだ意識がある頃、病院のベッドで夫がポツリとつぶやいた。
 「いっぱい大変な思いさせたね」

 本当に大変なことがたくさんあった。セールスの売り上げを伸ばすためにじつは借金をこしらえていたこと。愛人。幼子が寝ているのにも構わず深夜にたくさん部下を引き連れて帰ったときのもてなし……。
 だが、思わず出た言葉は、「お父さんも一生懸命頑張ってきたじゃない!」

 私、悪い人に会ったことがないんです、とまっすぐなまなざしで語る。そう思える人だから、今こんなにも穏やかに一人の日々を楽しめるのだろう。
 人生は、そんなに簡単でも甘くもないだろうが、優しいサーモンピンクに囲まれた明るい部屋は、少なくとも今の彼女にとても似合っていると思った。

台所からの景色。小さな机で俳句を詠み、日記を書く

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