佐賀城に残る「佐賀の乱」の爪痕 「青天を衝け」の城(12)

2度の大火で多くの建物焼失

本丸西側の水堀は埋め立てられているが、天守台へ至る虎口周辺のルートはよく残り、本丸の構造が感じられる。二の丸から土橋を経由して前述の帯曲輪を抜け、天守台へ上がる石段へ至る。虎口は喰(く)い違い虎口になっており、おそらく前面には城門もあったのだろう。
17世紀初めに描かれた「佐嘉小城内絵図」には本丸の北西に天守が描かれており、五重の壮大な天守があったらしい。佐賀城は1726(享保11)年と1835(天保6)年の2度に及ぶ大火災で建物の多くが焼失しており、とくに1726年の火災被害は甚大で、天守をはじめ本丸、二の丸、三の丸の建物が全焼したという。

復元された本丸御殿と、現存する鯱の門
現在、本丸には本丸御殿が復元されている。1726年の火災の翌年に二の丸に藩政の中心が置かれ、1835年の大火災で二の丸の建物が焼失すると、10代藩主の鍋島直正が本丸御殿を再建。同年に着手し、1838(天保9)年に完成させた。
前述の鯱の門も、1838年の本丸再建時、本丸への出入りの門として建造された。二重二階の櫓が乗った、本丸への玄関にふさわしい重厚な門だ。一重二階の続櫓が北西側の石垣に続いている。鯱の門という珍しい名称は、屋根の両端に青銅製の鯱が置かれていることに由来する。

本丸御殿は佐賀の乱でも焼失を免れ、明治維新後は佐賀県庁や裁判所として再利用された。佐賀中学校や師範学校の校舎、赤松尋常小学校の校舎として使われたこともあったという。1920(大正9)年頃に玄関や式台は解体されたが、藩主の居間として使われた御座間は残り、1957(昭和32)年まで赤松小学校の教室として再利用。老朽化により多くの建物は取り壊されたが、御座間は解体を免れ南水会館として活用され、本丸御殿の復元を機に御殿内に再移築されている。

1993〜94(平成5〜6)年度の発掘調査で本丸御殿の礎石が発見されたことで、当時と同じ場所への建て直しがかなった。明治時代まで存在したため古写真があり、外観の忠実な復元もできた。江戸時代の絵図や部屋のしつらえなどが記された絵図などの史料をもとに、建物内部の構造もよみがえっている。礎石は保存され、御殿はその上に復元。一部しか復元されていないが、かつては本丸内にびっしり建物が建ち並んでいた。復元されていない部分は平面表示されている。

天守は五重? それとも四重?
前述の「御城分間絵図」には五重の天守が描かれているが、「寛永御城并小路町図(かんえいおしろならびにこうじまちず)」に描かれている天守は四重。事情は定かでないが、佐賀城の縄張(設計)は黒田孝高(よしたか、官兵衛)が行ったという記述が残り、1609(慶長14)年に完成した佐賀城の天守は、孝高から提供された小倉城(北九州市)の天守の設計図をもとに建造されたという記載もある。小倉城の天守に似ていたというが、どのような姿だったのだろうか。ちなみに北堀が「筑前堀」とも呼ばれるのは、福岡藩の協力をもとに造られたからとされている。
(この項おわり。次回は12月20日に掲載予定です)
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■https://saga-museum.jp/sagajou/(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)
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