最後の築城! 明治時代に誕生した園部城 「青天を衝け」の城 (13)

小麦山には天守代わりの三重櫓が存在か
校舎の裏手にある小高い小麦山(園部公園)には、古文書や絵図によれば天守代わりの象徴的な三重櫓が建っていたらしい。南丹市国際交流会館は近年に建てられた天守風の建物で歴史的な根拠はないが、その横にある南丹市立文化博物館前にあるプールは本丸北側の水堀付近にあたり、かつての園部城の規模を感じさせる。南丹市役所の東側あたりが大手門にあたる北ノ門跡で、幕末に大手門として修築されている。その東側の釘貫(くぎぬき)門を境に、北側には城下町が形成されていた。

近年、南丹市役所新庁舎の建設にともない発掘調査が行われ、地下1.2メートル地点で江戸時代の築造と推定される石組の水路が見つかっている。江戸時代から明治時代にかけての園部城の姿を示す発見で、大手門の礎石などがそのまま地中に残されている可能性が高まった。水路の東側に並んでいた武家屋敷跡や堀跡から、江戸時代の陶磁器や園部城の建物に使われた丸瓦などが出土している。

歴代藩主の墓所は初代の隠居所?
園部藩主小出家墓所は、小出氏9代までの供養塔が並ぶ立派な廟所(びょうしょ)だ。墓所は変形八角形とみられる円形に近い曲輪(くるわ)にあるのだが、その曲輪が長大な横堀でぐるりと囲まれていることに驚く。横堀に沿って部分的には石垣も見られ、一部に土塁、出曲輪のような平坦(へいたん)地もあるようだ。
聞けば、初代・吉親の隠居所ともされるという。この場所は、園部城の本丸から南へ約1キロ、平野部に突き出すような丘陵の標高約180メートル地点にある。園部城との位置関係を考慮すると、園部城の一角を担うような、詰城のような位置付けもあったのかもしれない。武家諸法度発布後の厳しい規制下にあった1619年の築城を考える上でも興味深い。

なお、園部高等学校および附属中学校の敷地内は許可なく立ち入り禁止。園部藩主小出家墓所は佛教大学園部キャンパスの敷地内につき、見学には事前に許可申請が必要だ。

(この項おわり。次回は1月10日に掲載予定です)
#交通・問い合わせ・参考サイト
■園部城
http://www.be.city.nantan.kyoto.jp/hakubutukan/tenji_img/sonobe_castle.pdf(南丹市)
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