『るろ剣』を支えたアクション監督が、挑戦を続ける理由

1990年代に単身、香港に渡り、数々のアクション映画に参加してきた谷垣健治。日本では『るろうに剣心(以下、るろ剣)』シリーズのアクション監督をつとめ、邦画アクションに貢献した。今回、スタント・コーディネーターをつとめた新作映画『レイジング・ファイア』が日本でも公開となる。現在も香港に滞在し精力的にアクションの現場で活躍する彼の、これまでとこれからとは――。
情熱だけで香港へ進出した20代
――谷垣さんがスタント・コーディネーターとして参加した映画『レイジング・ファイア』は、ドニー・イェンが主演で、『ジェネックス・コップ/特警新人類』や『香港国際警察/NEW POLICE STORY/新警察故事』などのベニー・チャン監督の遺作でもあります。谷垣さんにとって、ベニー・チャン監督というのはどんな存在でしたか?
初めてベニー・チャン監督の現場に行ったのは、1998年の『ジェネックス・コップ』の撮影のときで、そのときはスタントマンとしての参加だったので、話す機会はなかったんです。その後は編集室で隣の部屋になることもあったし、撮影現場に遊びに来た時にちょっと話させてもらう程度でしたかね。だから今回立ち上げ時にベニー監督から「やってほしい」と指名があった時は嬉しかったですよ。ベニー監督はすごく紳士的な人だけれど、威厳があって、どっか怖い感じもあるんですよ。妥協しない人だからこそ、こっちも妥協ができないというような。だから、今回の現場でも、いい意味で張り合う感じで、「俺はこう思ってるけど、どうですか!」という感覚で作ったアクションシーンだったので、それが良い作用をもたらしたと思います。
――今回、二つの場面のスタント・コーディネーターを手掛けたということでした。
最初にベニー監督やドニーに声をかけてもらったときは、ちょうど『るろ剣』の撮影中でいけなかったんです。それがもう終わるかという頃に、やっぱり来てほしいと言われて、なんとなく断れないまま香港入りして(笑)。僕のほかにはディーディー・クーというスタント・コーディネーターが最初から入っていて、そこにカーアクションのニッキー・リーもいて、3人それぞれ違うシーンを同時進行で進めました。

――谷垣さんは、香港に最初に行かれたのは1990年代初め頃とのことですが、当時から、香港やアメリカでアクション監督をするということを考えていましたか?
香港でスタントマンとしてやりたいということしか考えてなかったですね。その先のことは、何も考えてなかったです。野球選手だったらメジャーリーグだとか、サッカー選手だったらヨーロッパでやりたいと思うのと同じというか。僕らスタントマンにとってはたまたま香港がその場所だったというだけなんです。ただ、当時は何のツテもなくて……。香港に渡った日本人はもちろん僕が最初じゃなくて、僕の師匠にあたる倉田保昭先生だとか、いろんな先人がいたんです。僕が先人たちと違ったのは呼ばれて行ったのではなく、なんの期待をされているわけでもなく勝手に行ったというところですね。とにかく行ってみて、自分が通用するのか試してみたいという気持ちが勝っていたんです。
――結果、ドニー・イェン主演の『燃えよデブゴン TOKYO MISSION』では監督をすることになりました。しかも、香港映画ファンだとわかりますが、中華圏の旧正月映画というのは、その年の初めを飾る一番の娯楽作品なんですよね。
まぁ、成り行き上なんですけどね(笑)。香港に行ってまもない頃に、ユエン・ウーピン監督の現場に入ったことで裏方が面白くなってきて、アクション監督になりたいなという気持ちが芽生えました。アクション監督を目指す上でジャッキー・チェンだとか、サモ・ハン・キンポーだとか、そういう強烈なロールモデルがいたのは大きかったかもしれないですね。
「アクション監督」と名乗る理由
――今では、アクション監督という職業を日本でも確立されましたね。
香港だと、アクション監督はカメラの指示もすれば、自分でカメラを持つこともあります。編集ももちろんアクション監督の職責です。香港でそういう教育を受けたもんだから、それが当然だと思っていました(笑)。日本の映画界には、そういう習慣がなかったので、殺陣師(たてし)じゃないよ、「アクション監督」だからね、アクションシーンの「監督」だからね、と言っておかないと、「なんで仕上げの現場にこの人がいるんだろう?」となる。だから、そういういろんな段階で映画に深く関わることに文句を言われないためにもアクション監督と名乗っていたというところは大きいです。抑止力ですね(笑)。
それと、僕らのアクションに関わる人間たちの部署を「照明部」や「美術部」と同じように、「アクション部」と名付けました。一般的にアクションチームというと、アクションシーンのときだけに来て、それで終わるイメージがあったと思うんです。でも、今はアクション部ってどの部署よりも早くその映画に合流して、俳優のアクション練習からはじめて、Vコンというアクションのためのコンテを作って、実際に撮影をして、編集して、僕の場合は仕上げの効果も見るわけですから、常駐して撮影隊の中にいます。こういう状況が一般の映画でできたのが、ここ15年ぐらいだと思います。これも、もともとはやっぱり成り行き上ですね。別に日本のアクション業界のことを考えてとかいうんじゃなくて、ただ単に自分が仕事をやりやすい状況として整えたかっただけなんです。

――10年以上前のインタビューで、「中国の監督がハリウッドにいくと、中国人コミュニティーを頼ったり、自分のスタッフを呼びよせたりしながらやっていく。でも日本の監督は、日本人を頼るというよりも、ひとりで頑張るという傾向がある」と話していたのが印象的でした。今の谷垣さんは、海外で活躍しつつも、日本人のコミュニティーをうまく作っているのではないかと思います。
僕が撮影で日本人を連れていくのは、いつも一緒にやっていて、僕のやり方を理解している人だったら、余計なやりとりをしないでいいからですね。別に日本人だから、ということではないです。あとは僕の場合は『るろ剣』を見て、「ああいうアクションを作ってほしい」とオファーをくれる人が多いから、それだったら『るろ剣』の時と同じような体制で、いつものようにできる現場を作ることが重要になってきますよね。中華圏の人は、映画に限らず、中華街がどこにでもあってコミュニティーがあるし、困ったときに自然に助け合う習慣はあるかもしれないですね。
今回の『レイジング・ファイア』もそうですけど、香港映画はいろんな人たちがぐちゃぐちゃになりながら一緒に作品を作っているけれど、そこにエゴがないというか、ドニーやベニー・チャン監督のやりたいことを、いかに現場で具現化させるかってことに労力を割いたという感じですね。その中で、さっきみたいに、ベニー・チャンを驚かせたいという気持ちでやったのがよかったかもしれないですね。
――確かに、いろんなアクションが詰まっていましたね。
あの手この手でね。ベニー監督の集大成じゃないけど、彼の作品の中のどこかで見たことがあるピースがさらにグレードアップして帰ってきた感じがあるし、爆弾のギミックとかも、『香港国際警察/NEW POLICE STORY/新警察故事』で使われていたけれど、もっとブラッシュアップされてスリリングになっているし、いい感じにことが進んだんじゃないかなと思います。

- 1
- 2