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ここは名も知らぬ街。“旅そのもの”に包まれる至福のとき

撮影/猪俣博史

『旅の断片』『途上の旅』

未知なる旅に向けて荷づくりに励みながら抱く高揚感。家をあとにして一歩を踏み出す瞬間の期待値の高まり。旅の途中、あらためてかみしめる「非日常」の不思議な感覚。そして旅も終盤にさしかかり、ふとよぎる寂しさ。若菜晃子さんの随筆集を1ページ目から読みすすめる途中で湧き起こる感情は、旅という行程で味わう愉楽そのものだ。

著者初めての随筆集『街と山のあいだ』との出会いは偶然だった。書店のなかを歩いていて、禁欲的なほどにシンプルな装丁の小ぶりな日記のような本に気づき、手に取り、冒頭の一編「美しい一日」を読んでそのままレジに走っていた。

山岳関係の本を長らく作っていた経歴から、数え切れないほどの山行、そして山を思う街での日常をつづったのびやかな筆致、豊かな情感と冴(さ)えた理性が同居する端正な文章にすぐに惹(ひ)きこまれた。

続く『旅の断片』は、より「旅」に焦点をあてた一冊。年に数度は海外へ出かける彼女の旅スケッチは、現地の空気やそこに暮らす人びとの息づかいまですくいとる。メキシコ、オランダ、キプロス、イギリス……。旅が制限されていた時期に読んだからなおのこと、彼女の「旅」に同道するかのような読書体験は、夢のような浮遊感に包まれる至福のときでもあった。

そしてこの秋、新たに届けられたのが旅3部作の2冊目、『途上の旅』。旅先で「自然のなかで過ごす時間が圧倒的に多い」という彼女が書きとめるのは、「そこに行くことでしか見られない風景」であり、「触れられないもの」であり、「感じられない空気」そして「知ることのできないこと」。みずみずしく描きだされる植生やさまざまな鳥の鳴き声。読む私はその一片に触れ、感じ、やはり一緒に旅しているのかと錯覚してしまう。つづられるエピソードはどれも魅力的で、案内人や宿の主人、店主などとのやりとりも映画のワン・シーンのように再現される。

『旅の断片』で特に好きなのは、スペインのマドリードからモロッコへの玄関口アルヘシラスまで向かう列車の道中がモチーフの「昼下がりの町」。途中、小さな乗換駅で旅人夫妻は手招きされるままカフェに入り、ガラスのコップに入ったミルクコーヒーを飲む。店内には、薄暗がりで静かに話す常連客と店主。旅人たちはコーヒーを飲んで小銭を払って店を出る。ただそれだけをつづったごく短い一編。それなのに、なぜかこの文章が心の奥底にじわりと温かい感触を届ける。

彼女自身も書いている。「ただそれだけの出来事であった。けれどもスペインというと、あのまばゆい午後の光と静まりかえった白い町を思い出す」。その一文だけで、私はもうスペインの名も知らぬ小さな町の一角に立っている。

また『途上の旅』では、アタカマ砂漠で置いてきた石のことを語る。不思議に魅(ひ)かれ、一度は拾った石。手放したくないという執着を認めながら、「もとあった場所に返そう」という想念を抑えられず、彼女は石を返す。「あの石があそこにあると思うことで、砂漠から帰ってきた今も、そこには私が見てきた世界が存在していると思える」。そんなふうに世界に向けて感性をひらくことのできる豊かさへの憧れ。

文章はさらりと軽やかなようでいて確かな質量があり、テクスチャーがあり、色があって温度がある。一方で、どの本にも、読みすすめるとハッとさせられるような極めてプライベートなモチーフが織り込まれる。死者について、あるいは、「死」への怖(おそ)れ。淡々とブレないはずの「若菜晃子」が感情をほろりと崩す瞬間。その直情にまた打たれてしまう。

それは、厳然と存在する山や自然への畏怖(いふ)にも通じている。「あの暗くさびしい波の色や風の音、海中の岩の回りに起きる白い泡沫(ほうまつ)、波頭が砕けるときの毎回違う形、曇った海と空の境目のない灰色の水平線の丸み、地中の鉱石にも似た冷たい灰緑色の水面。最初に目にしたときの、直視できない真実を見てしまった嫌な感じ、全身がそそけ立つような恐怖」「しかしそれこそが、まさに自分が立っている地球そのものの実体だったのだ」という文章から、彼女が本質的にそれらをつかんでいることが伝わってくる。

そこに立つとどんな景色が見えるのか、どんな空気が吸えるのか。音。明るさ。陽(ひ)射しの強さ。無限にかき立てられる、旅の感情のバリエーション。

著者の視点——カメラのフォーカシングは自在で、遠くを見ていたと思うと足元がズームアップされたりする。そこで生じる感情が、書き手と読み手のあいだで共振する。

めくるたび指にざらりと心地よい、厚みのある生成りの紙のページはどこか懐かしい匂いがする。その匂いを胸いっぱいに吸い込んで、旅への思いをさらに募らせる。

彼女の旅はまだ途上。次の1冊が待ち遠しい。

ここは名も知らぬ街。“旅そのもの”に包まれる至福のとき
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PROFILE
八木寧子

やぎ・やすこ
湘南 蔦屋書店 人文コンシェルジュ
新聞社、出版社勤務などを経て現在は書店勤務のかたわら文芸誌や書評紙に書評や文芸評論を執筆。ライターデビューは「週刊朝日」の「デキゴトロジー」。日本酒と活字とゴルフ番組をこよなく愛するオヤジ女子。趣味は謡曲。

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