東京の台所2
連載をフォローする

〈245〉孤独を支えた古い台所道具

〈住人プロフィール〉
53歳(女性)・無職
賃貸マンション・2DK・京王線 千歳烏山駅(世田谷区)
入居4年・築年数37年・長女(21歳)とふたり暮らし

    ◇

 「福岡のお雑煮を作るので、食べていってください」
 焼きあごと昆布だしの上品で奥深い香りがただよう台所で、彼女は忙しそうに菜を洗ったり、里芋の皮をむいたりしていた。
 師走だが、この取材のために一足早く故郷・福岡で曽祖母、祖母、母から受け継いだ伝統の雑煮を披露したいとのこと。

 かまぼこを器用に飾り切りし、ブリを湯通しする。福岡では大みそかの晩に、雑煮の具を串に刺して家族分を用意するという。正月、台所に立つ者が楽できるようにというならいから生まれた。楽しそうに手を動かしながら、彼女は意外なことを言う。

 「わたし、お雑煮やおせちを作ろうという気持ちになれたの、6、7年前なんです。20代の頃から精神科への通院と服薬を続けてきたので」

 率直な言葉で語り出す。
 こちらもフラットな気持ちで、ゆっくり聞こうと腰を据えた。

〈245〉孤独を支えた古い台所道具

酒を「飲みたくて飲みたくてたまらない」日々

 現在は大学生の娘さんとふたり暮らしである。最初の結婚は26歳。流産というつらい経験を境に精神のバランスを崩し、また夫との間にもすれ違いが生じた。
 離婚を経て上京、29歳で再婚したが、今度は長女の出産直後から、えたいのしれない不安が募り、気持ちが不安定になる。

 「この子をまた死なせちゃったらどうしようって、怖くてたまらなくなるんです」
 “また”という言葉には、かつておなかの中で育つことができなかった我が子の存在がある。

 車の音や、なにげない夫や義母の言葉が気になり不眠に陥った。娘が生後7カ月の頃には著しく体重が減り、朝起きられなくなっていた。

 「その後、精神科に通い、娘は保育園へ。でもなかなか思うような家事ができないし、相変わらず眠れないんです。明日も起きられなくて、ご飯が作れないんじゃないかと思うと、朝がくるのも怖くて」

 なんとか這(は)うようにして育児や家事をする。が、できていないと夫からの叱責(しっせき)もあり、つねにびくびくしながら日々を過ごす。
 そんな様々な恐怖心をまぎらわせてくれたのが、酒だった。

 「強いお酒を飲んだら恐怖心を忘れて家事ができるかもと、ある日の早朝思いつき、すぐコンビニまで走って小さなウイスキーを1杯飲んだのが始まりでした。すると、“家事をできないかも”といったもやもやした不安がスーッと消えた。そこから毎日。夫にわからないように、朝6時にコンビニまで行って299円のポケットウイスキーを店の前で一気飲みして、瓶を捨てるの。で、帰って、一気に家事をやるんです」

 そのうち自分でもおかしいと思いアルコール依存症のクリニックに通い始めるものの、病気への理解が薄く、飲んだり止めたり、通ったり通わなかったりを繰り返した。

 「37歳のとき夫に追い出されました」と、自嘲気味に語る。

 6歳の娘を連れ、関西に住む姉夫婦宅に身を寄せた。最初に姉と義兄が静かに語りかけた。
 「あなたは治療が必要な病気だから、お酒はやめよう。ちゃんとクリニックに通おう」
 だめな人間だからではなく、病気なのだと言われたことで気持ちが少し楽になった。姉夫婦は3人の子を抱えながら、根気よく言葉を荒らげることなく彼女をひたすら見守った。

 夫とは離婚が成立。「子どもを取られたら死ぬ」とつねづね口にしていた彼女の意思が尊重され、親権は彼女が持った。

 断酒ができ、抗精神薬を併用しつつ気持ちも安定してきたので、東京でアパートを借りて娘とふたり、姉夫婦にも助けられながら生活保護で暮らし始めた。

 ところが。
 「パートをやっても体力が続かないんです。2年間断酒していたのですが、お花見の寒い夜に、梅酒をお湯割りでうすーくした1杯くらいいいだろうと飲んでしまった。そこからなし崩しにお酒に溺れ、断酒できない自分に絶望しました」

 38歳。周囲の勧めでアルコール依存症専門病院へ入院。7歳の娘は児童相談所経由で里親に預けられた。

 翌年、再飲酒と入院を知って激怒した元夫に親権変更の調停を起こされた。
 彼女は思った。――この病気は、ひとりの力ではどうにもならない。アルコール依存症者の自助グループに通おう。今の自分では親失格だ。

 その間に、調停は成立し、娘は父と暮らすことになった。ますます自助グループに必死に通うようになる。

 「1日2回のミーティングに数年通いました。参加者同士が体験を語り合いながら互いに支え合うAA(アルコホリック・アノニマス)というグループで、これしかないと、もう必死で。娘とは定期的に面会したり、そのうち夫が出張のときはうちに来たりするようになって。まずきっちり断酒をして、定職を持たなくちゃと。娘と暮らせる力を蓄えたいと思いました」

 43歳。断酒が続いている彼女に、カウンセラーからNPOの事務のパートを紹介された。彼女いわく仕事に「くらいついた」。働きながら自力で簿記の資格を取得し、業務にうちこむ。
 やがて正職員に昇格。父子が暮らす家の近所に越した。そして娘のベッドを用意し、いつでも住める状態にして働きつつ1年間待った。

 2014年、ようやく娘とひとつ屋根の下の暮らしがかなう。娘は、ちょうど中2の冬休みで、受験が近く、父親には汲(く)んでもらえない悩みやジレンマが募っていたところだった。娘の「お父さんのところには帰りたくない」という一言で、全てが決まった。

エコバッグが吊(つ)るされた右手前の扉は、風呂場に通じる

14歳の娘との同居がかなって

 その年、離婚以来初めて正月の雑煮を作った。曽祖母から4代にわたって伝わる故郷の味を、娘に覚えてほしかったからだ。
 娘は串から具を外して椀(わん)に盛り付ける珍しい雑煮を淡々と食べていた。それでも食べてもらえるだけでうれしい。椀にいれた故郷の餅のように、彼女の心も丸くじんわりとあたたまった。

 以来、伝統の雑煮を毎年作り続けている。
 「娘はいつも反応が薄いので、初めて食べた時どんな気持ちだったかわかりません。でも、雑煮とおせちは私の作る料理の中でいちばん好きらしいです」

 さらに彼女は職業訓練校に通って情報処理を学び、NPOから、障害者雇用を推進する電機メーカーに転職を果たした。それに合わせ、都心の会社に通いやすい世田谷に娘と転居をする。

 断酒は14年目に入る。今は無職だ。会社は責任から来る不安とストレスのため、3年勤めてやむなく退職をした。リモートワークを相談したが2018年当時はやっとスカイプという時世でままならなかった。現在は障害年金、失業給付金、コロナの貸付金制度を使って暮らしている。パニックも時々おこる。
 しかし、表情は明るい。休職の頃から、強く感じていたことがある。

 「台所仕事がすごく楽しい。いまは無職なので経済的には厳しいですが、暮らしが楽しいという気持ちが変わりません。梅を漬けたり、きれいなおせちやぜんざいを煮たり、郷土料理を思い出して作ったり。私は食べることも料理も好きだったんだと、娘と暮らして思い出しました」

 撮影でも、年季の入った寸胴(ずんどう)鍋やホウロウの鍋、キッチンバサミ、鉄のフライパンが次々と出てきた。実家から持ってきた台所道具のほとんどが祖母から使い継がれてきたものだった。

 「私は幼い頃から、同居の祖母の料理が大好きだったんです。母は12歳のとき病死したので、ほとんど祖母の味で育った。ごまを炒(い)ったり擂(す)ったり、お料理を見るのも手伝うのも大好きでした。子どものころから結婚していた時代も含めて、自分がいちばん長く続けたのは台所仕事で、一番長く過ごした場所でもあったなと気づいたんです。この実家から持ってきた古い台所道具を使うたび、祖母や母、あるいは曽祖母と3代の女性たちのことを思うし、なんだか一緒に立っているような気持ちになるんですよね」

 ふたり暮らしでも、おでんは大きな寸胴で煮込み、何日もかけて食べる。私たちに振る舞う雑煮を作っているときも「おばあちゃんからこう教わって」「おばあちゃんはこんなふうに切るんです」と、ついこの間まで一緒にいた人のように話す。今は、会社員時代なかなか片付けられなかった台所を、少しずつ自分の思い通りに改良を重ね、気持ち良く料理できる空間に仕上げている最中だ。

 体調によって料理ができないときもあれば、かんたんなものしか作れないときもある。それでもいい、できるときに楽しもうと決めたら楽になれた。

 彼女の応募メールにはこう書かれていた。
 「この台所道具が、その後の私の人生の孤独を救ってくれました」

 上等な焼きあごと昆布でとった澄んだだしに大きなどんこや丸餅が沈んだ雑煮は、すばらしくおいしかった。優雅で清らかな味わいに、「ほーっ」と、カメラマンの本城さんと感嘆していると、彼女はほほえんだ。

 「お雑煮を作れる自分にホッとしています。そうするまでに十余年もかかってしまったので。お雑煮や道具を介して、100年前の台所が今の台所とつながってる。死んだ人たちが大事に使ってきたもので、守ってきた同じ味を再現できるのってロマンチックだと思いませんか?」

 先人と対話できるこの台所は彼女にとって、心の手当てをする場でもあるのかもしれない。あなたは愛されていると、代々受け継がれてきた愛情を確かめる場所。5代目の娘さんにとってはどうだろう。いつか話を聞きたい。

鍋には串のままいれる

「東京の台所2」取材協力者を募集しています

台所のフォトギャラリーへ(写真をクリックすると、くわしくご覧いただけます)

REACTION

LIKE
COMMENT
1
連載をフォローする

SHARE

  • LINEでシェア

FOR YOU あなたにおすすめの記事

POPULAR 人気記事

※アクセスは過去7日間、LIKE、コメントは過去30日間で集計しています。

RECOMMEND おすすめの記事

&MEMBER限定の機能です

&MEMBERにご登録(無料)いただくと、気に入った記事に共感を示したり、コメントを書いたり、ブックマークしたりできます。こうしたアクションをする度にポイント「&MILE」がたまり、限定イベントやプレゼントの当選確率が上がります。

&MEMBERログイン

ID(メールアドレス)
パスワード

パスワードを忘れた方はこちら

&MEMBER登録はこちら

&MILEの加算アクション

  • &MEMBER新規登録:100マイル
  • 記事に「LIKE」を押す:10マイル
  • コメントの投稿:30マイル
  • 自分のコメントに「LIKE」がつく:10マイル
  • *今後、以下のアクションも追加していきます

  • 朝日新聞デジタル有料会員の継続:100マイル
  • ログインしてサイト訪問:10マイル
  • アンケート回答:30マイル
  • 「朝日新聞SHOP」での購入:50マイル
  • イベント申し込み:50マイル

&MILEの獲得数に応じてステージがあがり、ステージがあがるごとに
&MEMBER限定のイベントやプレゼントの当選確率が上がります。詳細はこちら