フリー・デザイナーの先駆者G.ミケロッティ、日野やプリンスも

ドイツ「BMW」との協業では、リアエンジン、フロントエンジン双方の車種を手掛けた。
1968年「1800ノイエ・クラッセ」の逆反りしたフロントフェイスは、のちに同ブランドのエクステリア・デザインにおけるひとつのアイデンティティーとなった。

フランスの1963年「ルノー・アルピーヌA110」では、FRPを用いた軽量ボディに挑戦。見事に成功した。2017年の新生A110は、ミケロッティによるオリジナルデザイン無しには、有り得なかったデザインである。

1960年代初頭、発展途上だった日本メーカーにも手を差し伸べている。
ひとつは旧プリンス自動車の「スカイライン・スポーツ」2ドアクーペおよびコンバーティブルである。当時の日本車としては超弩(ど)級の高級車だったこのモデルは1960年トリノ国際自動車ショーでデビューを飾ったのち、1962年に生産型が発売された。

もう1台は冒頭で記した日野自動車である。1962年トリノ・ショーに出品されたショーカー「コンテッサ900スプリント」でスタート。協力関係は、量産車である1964年「コンテッサ1300」に結実する。
日本のスパイ小説にも登場?
日本ついでに余談を記せば、日本の作家・梶山季之氏の産業スパイ小説『黒の試走車』には、ミケランジェロなるイタリア人デザイナーが登場する。ミケロッティを意識したものであることは容易に想像できる。
そうした各社との仕事の傍らでミケロッティは、自身の名を冠した意欲的なコンセプトカーも約30〜40台をデザイン、モーターショーで発表し続けた。しかし1980年1月、60歳を前に治療困難な癌(がん)のためこの世を去った。
今回のトリノ自動車博物館(MAUTO)の展示は、実車14台と100点以上にわたるスケッチを収集・展示したものである。
スケッチや写真資料の大半は子息エドガルド所蔵によるもので、1964年9月に日野自動車工場を訪れ、コンテッサの生産ラインを視察している写真も公開された。
また、日野自動車からもテンペラによるコンテッサ1300の肉筆スケッチ2点が貸し出された。

MAUTOのマリエッラ・メンゴッツィ館長によると、企画を知った欧米各国のミケロッティ車オーナーたちからは「ぜひ私の車を」と提供の申し出が相次いだという。