フリー・デザイナーの先駆者G.ミケロッティ、日野やプリンスも

日野自動車といえば今日、トラックなど商用車ブランドとして知られている。しかし、1960年代には乗用車「コンテッサ1300」を生産していた。同車をデザインしたのはジョヴァンニ・ミケロッティ。彼の生誕100周年記念展が、故郷であるイタリア・トリノで開催されている。実車とスケッチを鑑賞しながら、本人が自動車業界に残した功績を振り返る。
【動画】ジョヴァンニ・ミケロッティ生誕100周年記念展の様子
ジョヴァンニ・ミケロッティは1921年、トリノに生まれた。ウィンドー装飾を手掛けていた彼が自動車の世界に入るきっかけは1937年、著名なカロッツェリア(車体製作業者)である「スタビリメンティ・ファリーナ」に見習いとして採用されたことだった。弱冠16歳だった彼は、ツナギ姿で自転車にまたがり通勤していたという。
入社翌年「チーフ・デザイナー」に
上司には、のちにカロッツェリアとして名を成すピエトロ・フルアがいた。だが翌年、彼が上層部と不和で会社を去ったため、ミケロッティは夜学で通っていた製図学校を卒業するやいなや、いきなり会社のデザインすべてを任されることになった。
第2次世界大戦後になると、勤務先のスタビリメンティ・ファリーナは衰退する。高級車市場の縮小が原因だった。
そうしたなか1947年、ミケロッティは独立を決意する。そして「アレマーノ」「ギア」「ベルトーネ」「ヴィニャーレ」といったトリノを本拠とするカロッツェリアと、主に一品もしくは少量生産車に関する協業を開始した。
ここで、カーデザイン業界の歴史について筆者が短く解説しておこう。
今日トリノのカロッツェリアは多数のデザイナーやエンジニアを社員として擁し、研究開発センターとしての機能が主である。
いっぽうで当時は、板金に代表される製造部門の従事者が従業員の大半を構成していた。また、製図と実際の車体製作作業の境界は、人的にも組織的にも極めて曖昧(あいまい)だった。
そうした時代にデザインを専業とし、各社を横断して働くスタイルを確立したミケロッティは、フリーランス・デザイナーの先駆けであった。
1949年には最初のスタジオを開設。後年業務拡張にともない、フランチャ通り35番地に居を定める。そこで多くの名作を創り出すとともに、のちに「ピニンファリーナ」で大阪万国博覧会にも展示された「モードゥロ」を手掛けるパオロ・マルティンなど数々のデザイナーを輩出した。
自動車量産時代、世界の著名メーカーに協力
やがて自動車の量産時代にともない、ミケロッティのクライアントは、トリノのカロッツェリアから国外の自動車メーカーへと拡大してゆき、彼は惜しみなく才能を発揮した。
たとえば英国「トライアンフ」とのコラボレーションでは、鈍重だったデザインを、英国車ならではのクラシックな雰囲気を尊重しつつ、より軽快なものに生まれ変わらせた。
