愛人、妻、夫、誰が「鬼」なのか? ただならぬ幾重もの心のひだ

『あちらにいる鬼』
昨年12月のテレビ番組「アメトーーク!」の「読書芸人」で、出演していた男性芸人の一人が「作家か詩人とHしたい。Hした後に、Hな作品が増えてほしい」と発言した。創作に才能に影響を与えたいということらしかったが、なんて単純なんだろうと思った。
これだと、作家側から考えると「ううむ、ネタがない。よし誰かとセックスしよう!」ということになるじゃないですか。そんな馬鹿な……! 八百屋さんが誰かとHしたら売ってる野菜がみずみずしくなったなんてことはないし、農家の皆さんが愛の夜を重ねていったら畑がよくなったということもない。小説家と作品もこれと同じ。
「男だから」「女だから」という言い方はなかなか難しいのだが、私の考えでは、自分の父親の不倫を男性作家は書かないと思う。生々しすぎるし、同性として照れる、あるいは“わかってしまう”ところがあるからだ。本書『あちらにいる鬼』は井上荒野さんによる、作家である父・井上光晴先生と瀬戸内寂聴(当時は晴美)先生の不倫の「モデル小説」。女性が男親を見る容赦のない、かつ思慕がにじんだ目で書かれていく。
登場するのは、作家でのちに出家した「長内みはる」と異様な魅力を放つ同業者の「白木篤郎」、その妻「笙子」。女二人が交互に語り手になり、彼女たちの目線で白木がどういう男だったかが描かれる。
みはると笙子が敵対どころか共犯関係のようになっていくのが読みどころ。「愛が、人に正しいことだけをさせるものであればいいのに。それとも自分がどうしようもなく間違った道を歩くしかなくなったとき、私たちは愛ということばを持ち出すのか」という言葉が刺さる。さあこれは妻と愛人、どちらのものだと思いますか? 物語というのはかくも複雑なのだ。
さらに、時々夫の代わりに原稿を書いて出版社に渡していた笙子。小さなケーキ屋の喫茶コーナーに書き上げたばかりの自作を持っていき、白木に添削してもらっていたみはる。「俺とセックスをしたら、作品に影響を与えられる」なんて考えをぶっ飛ばす、幾重もの心のひだがここにある。「鬼」とは誰か、誰から見て誰が「鬼」なのか。
最終的にせりあがるのは、これを書いた荒野さんの、物書きの業(ごう)のようなものだ。読者としては「ええっ、井上光晴先生と寂聴(晴美)先生がこんなことを!」と丸のみにするわけにはいかないし、「どこまでが事実でどこからが創作?」を探そうとする読書もムダ。白木、みはる、笙子の関係の「コクと切れ」が、そのまま荒野さんの文体に乗り移った作品で、白と赤と青がみごとにまじりあい、明け方の雲に映る紫のような極上の色になった。まるごとを、味わおう。
そして単行本の時と文庫の初回帯の推薦文が瀬戸内先生。もうまいりましたとしか言いようがない。表現者こそが「鬼」なのかもしれない。このただならなさを見よ!

まむろ・みちこ
代官山 蔦屋書店 文学コンシェルジュ
テレビやラジオ、雑誌でおススメ本を多数紹介し、年間700冊以上読むという「本読みのプロ」。お店では、手書きPOPが並ぶ「間室コーナー」が人気を呼ぶ。