歴史にほんろうされた国 セントロ・デ・ポルトガルで感じた「サウダーデ」

古い建物や路地が残り、どこを歩いても旅情を誘うポルトガル。初のポルトガル旅行を楽しむ人の多くは首都リスボンを歩き、あるいはヨーロッパから地続きの旅をしてきた人はポルトの川岸にたたずむ。目的もなくフラフラと歩いていても、シャッターチャンスにあふれる国だ。
ポルトガルを象徴する言葉としては「サウダーデ」があるだろう。郷愁、思慕、懐古といった訳され方をするが、もっと多面的な感情を表した言葉だそうだ。
その正体を知りたくて、リスボンとポルトに挟まれた中部地方「セントロ・デ・ポルトガル」を巡ってみた。

大航海時代の礎を築いたテンプル騎士団の修道院 トマール
リスボンから電車で2時間。「トマール」という小さな街がある。4年に1度、純白の衣装を着た女性が高さ2メートル近く積み上げたパンと花を頭に載せて練り歩く「タブレイロスの祭り」で有名だ。サン・ジョアン教会を中心に築かれた市街地を、世界遺産「キリスト修道院」が見下ろしている。

「ポルトガル」という国ができる前、イベリア半島を占領していたムーア人から領土を奪還するレコンキスタ(再征服)という活動があった。フランスからの応援として派遣されたテンプル騎士団は功績として土地をもらい、城塞(じょうさい)兼聖堂を建てた。テンプル騎士団解体後も、ポルトガル国内では「キリスト騎士団」と名を変えて活動を続けられたそうだ。
キリスト騎士団を財源として当時団長を務めていたエンリケ航海王子が大航海時代を牽引(けんいん)する。1434年、ヨーロッパでは前人未踏だった、大西洋を南下した西サハラ付近のボジャドール岬を越えたのだ。1499年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドからコショウと財をもたらし、1541年にはポルトガル船が豊後(今の大分県)に漂着し日本を「発見」。ポルトガルは全世界の海を誰よりも早く制した。

トマールのキリスト修道院はポルトガル最大規模で、その財力を感じるだけの荘厳さがある。特に「マヌエル様式の大窓」は圧巻だ。天球儀やロープ、海藻など海にまつわるモチーフが多用され過剰なほど装飾されている。窓にあしらわれた格子は当時金より価値が高かった塩田を表しているそうだ。
古びた回廊に人影はなく、目を閉じて当時の熱気を想像する。
エンリケ航海王子は生前から英雄化されていたのにもかかわらず、謎が多いそうだ。そもそも、フランスで弾圧されたはずの騎士団が、なぜポルトガルの地では許されたのだろう。「都市伝説」的魅力を感じる人にとって、「テンプル騎士団聖堂」も特に印象に残るだろう。聖地エルサレムの聖墳墓教会を模してつくられた16角形円堂では、騎士たちがすぐに出陣できるよう馬でまわりながらミサに参加したといわれている。

リスボンにある世界遺産「ジェロニモス修道院」の建築家が手がけた南門も見事。ここには、フリーメイソンが資材を提供した、とされる刻印がいくつもあるので探してみて欲しい。信じるか信じないかはあなた次第、ということになる。
初めて欧州の地を踏んだ日本人が眠る場所 コインブラ
モンテゴ川のほとりに広がる街コインブラは、丘の上のアルタ地区と下町のソフィア地区を合わせて世界遺産になっている。アルタ地区のコインブラ大学で学生は黒いマントを羽織っており、映画の中にでも入り込んでしまった雰囲気だ。

ここでもっとも有名なのは、旧大学内にある「ジョアニナ図書館」だろう。ディズニー映画の実写版「美女と野獣」に登場する図書室のモデルになっており、逆さになった四角すいの柱が印象的だ。「知がなくば国が滅びる」として、1724年にジョアン5世によって建てられた。その豪華絢爛さは平和の象徴として、学びに集中して欲しいという気持ちが込められている。ふだんは撮影禁止だが、取材ということで特別に撮らせてもらえた。

大学近くにある「新カテドラル」には「天正遣欧少年使節」より30年早くポルトガルに来た日本人が眠っている。「新」といっても16世紀に建造開始。入ってすぐ左側、聖人を配したレリーフの右上にいるのが日本人だという。1550年代にフランシスコ・ザビエルから鹿児島で洗礼名「ベルナルド」を受け、ポルトガルに上陸。コインブラの地で修行しここで逝去したと記録が残っている。だが、新カテドラルには墓碑はなく残念ながらここに眠っているという確証はない。
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