ニッポン銭湯風土記
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港ヨコハマの郷愁路地に迷う 漁師町の角打ち賛歌 子安通・井川湯

狭い路地にひっそりと残る井川湯=横浜市神奈川区

旅が好きだからといって、いつも旅ばかりしているわけにはいかない。多くの人は、人生の時間の大半を地元での地道な日常生活に費やしているはず。私もその一人だ。が、少し異なるのは、夕方近くにはほぼ毎日、その地域で昔から続く銭湯(一般公衆浴場)ののれんをくぐることだろうか。この習慣は地元でも旅先でも変わらない。昔ながらの銭湯の客は、地域の常連さんがほとんど。近場であれ旅先であれ、知らない人たちのコミュニティーへよそ者として、しかも裸でお邪魔することは、けっこうな非日常体験であり、ひとつの旅なのだ。

【動画】小さいけれど東京式銭湯の味わいを濃厚圧縮した浴室。富士山ペンキ絵は中島盛夫絵師によるもの

神奈川宿描いた広重「台之景」、坂の漁村はここか

歌川広重の「東海道五十三次」には日本のメインロードを旅するワクワク感がぎっしり詰まっているが、今やその風景が失われている場所が多い。なかでも神奈川宿を描いた「台之景(だいのけい)」は、ゆるい坂の左側に宿屋が一列に並び、その左は突如として海に落ち込んでいる印象的な絵だが、現在この海は埋め立てられて横浜駅が鎮座している。

歌川広重「東海道五十三次之内 神奈川 台之景」
歌川広重「東海道五十三次之内 神奈川 台之景」

だがある日私は地図を見ていて、そこより少し東京寄りの子安付近には広重の絵に似た感じの地形が今も残っているらしいことに気がついた。埋め立て地手前の狭い水路を挟んで昔の海岸線が2km近く残され、第一京浜道路(旧東海道、国道15号)と海岸線の間に毛細血管のような路地が密集している。かつては台地から砂浜に下りる斜面に張り付いた漁村だったのだろう。そしてその密集住宅地の中に「井川湯」という銭湯の名がポツンと記されていた。

海への傾斜に密集、防災井戸目立つ子安通の路地

昨年11月、神戸空港から羽田空港へ飛んだ。わずか1時間。そこから京急線で子安へは30分と少し。つくづく、広重が描いた時代と比べるとまるで魔法だ。子安駅を出て第一京浜を渡ると「海抜7メートル」の表示。海へは緩傾斜となっていて、何本もの狭い路地がそこを下っている。そのうちの1本を下ってみた。

路地を少し下って振り返る。防災井戸の表示があちこちにある
路地を少し下って振り返る。防災井戸の表示があちこちにある

まっすぐ進めばわずか100メートルほどで海岸沿いの浜通りに出てしまうが、途中にくねくねと脇道が複雑に交わっていて、それを曲がるとさっきまでの幹線道路とはまったくの別世界だった。角を曲がるごとに古い防災井戸が次々と現れたり、家々の隙間にいきなり神社がボンと出てきたり。

数十メートルおきに現れる井戸。消防車が入れないため井戸が生命線なのだろう
数十メートルおきに現れる井戸。消防車が入れないため井戸が生命線なのだろう

沖は埋め立てられても、江戸前アナゴ漁は健在

浜通りに出ると倉庫が並び、水路には無数の漁船が群がって係留されていた。近くの橋の上から眺めると、現代の横浜とは思えないアジアな風景が広がった。

富士見橋から南
富士見橋から南
富士見橋から北
富士見橋から北

沖の埋め立てに伴って、子安の漁師たちは漁業権を放棄した。ここにひしめく漁船の多くは使われなくなったようだが、それでも一部はアナゴ漁を継続し、江戸前のアナゴとして珍重されているらしい。江戸から七里、神奈川の漁師はまだ生きている。

浜通りから煙突が見えた。井川湯もまた屈曲する狭い路地の隙間にあり、玄関の横に井戸がある。路地が狭いため正面から全体写真を撮ることはできない。

向かいの路地に入り込んで眺める井川湯(左)。建物脇にある井戸。非常用であり、この湯を沸かしているわけではない
向かいの路地に入り込んで眺める井川湯(左)。建物脇にある井戸。非常用であり、この湯を沸かしているわけではない

極彩色のミニマム銭湯

関東式のキリッと短いのれんをくぐるとげた箱スペースだが、人ひとりが靴を脱げる最小の空間だ。

げた箱は珍しい富士錠
げた箱は珍しい富士錠

中へ入ると脱衣場もまた超コンパクトで、番台におかみさんがいる昔ながらの郷愁風景。服を脱いでかごに入れ、浴室に入る。ここもまた銭湯としては最小サイズだが……それにしても、入り組んだ狭い路地に埋没するような小さなカプセルを開いた途端に展開するこの銭湯絵巻はどうだろう。

男湯は富士山だが、女湯にはおだやかな瀬戸内海が描かれている
男湯は富士山だが、女湯にはおだやかな瀬戸内海が描かれている
タイル好きの間では「手裏剣タイル」と呼ばれる細かな組み合わせタイルがびっしりと床を埋め尽くしている
タイル好きの間では「手裏剣タイル」と呼ばれる細かな組み合わせタイルがびっしりと床を埋め尽くしている

狭いなりに富士山が可能な限り大きく描かれ、男女仕切り壁には九谷焼のタイル絵が並ぶ。まるで東京の銭湯様式を凝縮したような、かわいらしいぜいたく感。ここで湯につかり、いつものように淡々と髪と体を洗い、ひげをそる。常連客にはこれが日常だが、よそ者にとっては、いったい私はここでなぜこんなことをしているのだろうかと自問してしまうほどの、ある意味で異次元空間だ。

女湯には竜宮城のタイル絵がある。見つめていると吸い込まれそうな気分になる
女湯には竜宮城のタイル絵がある。見つめていると吸い込まれそうな気分になる

百年余の歴史と、地元との絆

風呂から上がると、脱衣場に貼られた1枚の大きな写真に目を奪われる。写真が趣味だった今は亡き先代のおかみさんが1998年、銭湯写真のコンテストで表彰された写真だ。のちに大人になったモデルの子どもが久しぶりに来て、「僕がまだいる!」と驚いたという。

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