秀吉と関連? 石垣の並び今と違った! 海に臨む景勝地・唐津城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は佐賀県唐津市の唐津城です。崩落の可能性もある石垣の積み直しに伴う発掘調査で、当初は現在の姿とはまったく違う区画で石垣が積まれていたことがわかったのです。
【動画】唐津城を歩く
唐津湾に面し満島山にそびえる
唐津城は、唐津湾に面する満島山にある。標高41メートル地点に本丸、その南側一段下に二ノ曲輪(くるわ)を置き、それらを通路状の腰曲輪がぐるりと囲む。北・東・南側は唐津湾や松浦川に面した、海に臨む城だ。陸続きとなる西側に二の丸と三の丸が置かれ、その外側に城下町(外曲輪)が広がっていた。

河口付近で町田川と合流した松浦川は、満島山の東側を流れて唐津湾に注ぎ、ちょうど、城の東側を守る外堀になっている。築城時に大幅に流路を付け替えたとも伝わるが、どうやら本来の地勢を生かしながら形成したようで、二の丸と三の丸も砂丘の形状を利用して築かれている。

現在、早稲田佐賀中学校・高等学校などがあるあたりが二の丸跡だ。堀端に時の太鼓が建つ二の門堀を挟み、その西側に三の丸が広がる。早稲田佐賀中学校・高等学校の北側に延々と続く石垣は、二の丸をめぐっていた石垣の一部。二の丸には藩主の住まいと藩庁となる二の丸御殿が置かれ、学問所や蔵・厩(うまや)などもあった。
旧三の丸内にあたる唐津市役所の南東側、大手口交差点にかつて大手門があり、市役所南側の通りを境に南側にも城下町が展開していた。唐津駅北側に紺屋町、呉服町、刀町などの地名があるのはその名残だ。

初代唐津藩主、寺沢広高が築城
唐津城は、初代唐津藩主となった寺沢広高が1602(慶長7)年から1608(慶長13)年にかけて築いたとするのが定説だ。1592(文禄元)年からの豊臣秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の最中、この地を治めていた波多氏が改易。唐津は秀吉の直轄地となった後、秀吉政権下で長崎の統治を任されていた家臣の広高に与えられた。
広高は、文禄・慶長の役の際には物資搬送の取次役を務めて躍進。その後は徳川家康との関係を深め、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは家康率いる東軍に加勢した。この功績により肥後国の天草4万石を加増されて12万3000石を領すると、1602年から新たな拠点として唐津城を築いた。

残念ながら、寺沢家は2代・堅高(かたたか)が1647(正保4)年に自害したことで断絶し改易されてしまった。その後、天領を経て1649(慶安2)年に大久保氏が唐津城主となると、以後は松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と唐津城主は入れ替わり、明治維新を迎えた。
天守台付近に埋没した旧石垣 現在と異なる区画
寺沢家が断絶したため資料が乏しく、築城時の詳細はわかっていない。しかし近年、2008〜2021(平成20〜令和3)年度の唐津城石垣再築整備事業にともなう発掘調査で、広高による築城とは異なる構造の城が姿を現した。本丸の西・東・南面の石垣から、地中や石垣裏側に埋没した石垣がいくつも見つかったのだ。

そのうち天守台付近からは、3カ所で古い石垣が見つかっている。二ノ曲輪の地中からは、上部の石材が取り外された高さ約3.5メートルの石垣を発見。石垣裏の構造から、高さはさらに1メートルほどあったとみられる。この石垣は天守台へ直行しており、現在の二ノ曲輪とは明らかに異なる軸線だ。つまり、この石垣が地表面にあった頃は、現在とはまったく異なる区画配置で石垣が積まれていたことがわかった。
同じように、天守台直下や天守台東側からも石垣が確認された。いずれも、現在の石垣とは異なる軸線だ。現在の天守台は旧天守台を基礎としてその上に構築されたようで、古い石垣より10〜20センチほど内側に積まれていた。

これらの古い石垣には共通点がある。天守台で加工された花崗(かこう)岩や玄武岩が用いられているのに対し、古い石垣は加工されていない自然石が採用されている。また、古い石垣は天守台に比べて傾斜も緩く、隅角部も鈍角だ。こうした古式の特徴を持つことから、城内最古の石垣と推定される。いずれも現在の石垣とは軸線が異なること、地中に埋没または現在の石垣に覆われていることなどから、江戸時代初期に一度埋め立てられ、その上に現在の天守台や二ノ曲輪を造成したと考えられる。

発見された3カ所の石垣をたどると、現在の二ノ曲輪には約33メートル四方の曲輪があり、天守台の東側には幅6メートルほどの大手道が存在していたようだ。曲輪は天守台の南西側にあり、南西隅と南東隅にはそれぞれ櫓台があったとみられる。
- 1
- 2