東京の台所2
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〈249〉もうこの人と暮らせない。荒んだ心を照らす冷蔵庫は今

〈住人プロフィール〉
33歳(女性)・会社員
賃貸マンション・1LDK・半蔵門線 清澄白河駅(江東区)
入居1年・築年数1年・恋人(26歳、ギタリスト)とふたり暮らし

    ◇

 かつて、大手企業の同期男性と4年付き合った。そのうち2年は芝浦で同棲(どうせい)をした。予算と、彼がランニングできる緑地が近いことから彼女が探した。周囲に店がなく、カフェやバーにはふらっとは行けない倉庫街である。

 「必然的に家で過ごすことが多くなり、これが徐々につらくなりはじめ……。生活費は折半でしたが、家事はなぜか私が責任を持ってやることになっていました。“ここに埃(ほこり)があるよ” “洗い物しないで寝ちゃったの?”と次第に責められるようになって、疲弊していきました」

 彼女は転職し、さらに忙しいコンサルティング会社で、夜中2時に帰宅、翌朝9時に出社する生活になっていた。
 彼は残業が少ない業務で定時に帰る。神経質な性格から、家のさまざまなことが気になるらしく、彼女を責める。
 しかし、当時の彼女は「できない自分が悪い」と思いこんでいたという。

 「彼に対する怒りはなく、“完ぺきにできない私がだめなんだ”と思っていました。母が専業主婦だったこともあり、家のことは女がやるべき、という固定観念に、自分自身が縛られていたんですね」

 2年後、彼の海外赴任が決まり、婚約を経て遠距離恋愛となる。彼女はがむしゃらに働きなんとか7日間の休暇を取得、赴任先を訪ねた。ところが。

 「私の家事がうまくいかないと、彼は物にあたったり、急に不機嫌になったり、怒り出したり。3回の旅行のうち2回、悲しい気持ちで7日間を過ごしました。芝浦では責められても公園や隣県の姉宅など逃げ場があったのですが、海外では彼との空間に身を置くしかなくて。3度目の旅行で私が体調を崩し、別れを決意しました。もうこの人とは暮らせないなって」
 
 芝浦の、ひとりには広すぎる部屋であいかわらず仕事ファーストで暮らした。深夜、タクシーで帰るときの夜景に慰められる日々。料理をしない台所には、結婚を夢みていたころにふたりで買った冷蔵庫が鎮座している。

 「いつもがらんと冷たくて。それをみると荒(すさ)んだ自分がいやになり、“なにか入れなくちゃ”と、コンビニで牛乳と卵とベーコンだけを買うんです。朝食に卵やベーコンを焼くために。でも、結局はそれさえほとんど作れずだめにしてしまう。でもまた、牛乳と卵とベーコンを買うんですよね。がらんとした冷蔵庫はせつないから」

 その後いくつかの恋愛をした。酒が好きで、ひとりでバーに行くと自然に声をかけられる。しかし、どれも短いものだった。

 家には寝に帰るだけ。学生時代バンドを組み、今も趣味でベースやギターをつまびく彼女は、毎晩ラジオアプリで好きな音楽配信を聴きながら眠りにつく。

 そのなかにとりわけ心を惹(ひ)かれるジャズギタリストの番組があった。語りも選曲も心安らぐ魅力的な内容だったのでツイッターでフォロー。2019年春のある日、ふらりとライブに行ってみた。

 「ところが、彼が日にちの告知を間違えていたようで、ライブは開催されてなくて。お店の前からダイレクトメッセージを送りました。そこからやり取りが始まって……」

 音楽、ギター、音響。最初から7歳下とは思えないほど話が合った。
 彼が初めて芝浦のマンションに泊まった日、疲労で顔色の悪い彼女を見て、「栄養を取らなきゃ」とスーパーに誘われた。前回スーパーに行ったのがいつか思い出せないほど久しぶりである。彼は野菜や肉を買い込み、キャベツとコンビーフの炒めものを作った。 

 楽しそうに料理をする後ろ姿を見ながら「キッチンってこう使うものだったよな」と思った。いつしか彼は実家に帰らなくなり、冷蔵庫はさまざまな食材で満たされてゆく。ハードワークから帰宅すると、温かな食事が彼女を待っているようになった。

 「彼にとって料理は趣味というより、節約のために身についた習慣のようですが何を作ってもおいしいんです。意外な食材と調味料を即興で組み合わせて、見事に味が調和している。彼の料理はジャズみたいだなって時々思います」

〈249〉もうこの人と暮らせない。荒んだ心を照らす冷蔵庫は今

いざ、下町へ

 元婚約者との記憶が残る部屋とも、寒々とした海辺の倉庫街とも別れたくなったのは自然な流れだった。ふたりが新生活をするために選んだのは、清澄白河だ。

 「彼のイベントを観に行き、誰かと話したり、買い物や地元の人と交流したりする楽しさ、心地良さに気づきました。清澄白河は、深川の下町の雰囲気が残っていて、こっちにきて地元の知り合いが増え、顔と顔を合わせる地続きのコミュニケーションが本当に楽しいです」

 例の冷蔵庫は捨てるのは忍びなく、ふたりでグレーのカッティングシートを貼った。元は赤色だったというのが信じられぬほど、コンクリートの壁にしっくりマッチしていた。

 スタイリッシュなメゾネットマンションは、今のところ彼女が家賃を多めに出している。彼は昼間はギター講師、夜は本業のライブがあるが、コロナ禍で後者の仕事が減っているからだ。

 かつて交際した男性たちは、パートナーの身なりや肩書、体裁を気にする人が多かった。じつは自分もそうだったかもしれないと振り返る彼女は、「今は、好きなことを仕事にしている彼を尊敬しているし、仕事も生活も楽しむ姿からたくさんの気づきをもらってます。おかげで人生がとてもゆたかになりました」と語る。
 そう、彼女は家賃などの何百倍も感謝しているし、そんなものは払えるほうが払えばいいのだ、女だろうと男だろうと。

 平日の料理は彼、週末は彼女が作る。気がつけば、あれほど好きだったバーにも行かなくなっていた。

 最近、気づいたことがある。
 「私、本当は芸術系の大学に行きたかったんです。経済的に無理であきらめたのですが。そこから、仕事はやりたいこととは別と割り切って打ち込んできた。家でも、寝ても覚めても仕事のことばかり考えて。でも彼を見ていて、仕事と生活、仕事と好きを分離するのは違うな、ふたつのバランスがとれて初めて自己実現ができるのではと考えるようになりました」

 だから現在は転職準備中である。コンサルとデザインの仕事を融合した新しい働き方を形にしたいのだそうだ。

 休日は楽器や趣味の写真を楽しんでいる。一昨年は行きつけのカフェで店主と親しくなり、写真展も開いた。どれも、「彼と出会わなかったらやってないですね」と言い切る。

 あのときライブの日を間違えていなかったら、ラジオ配信を聴かなかったら、いや海外で悲しい別れがなかったら、いまもきっと芝浦で冷蔵庫はがらんとしたままだろう。

 よく聞く言葉だが、人生に無駄はないとしみじみ思う。たとえどんなアクシデントであろうとも。

〈249〉もうこの人と暮らせない。荒んだ心を照らす冷蔵庫は今

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