現在は小学校! もうひとつの五稜郭 龍岡城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は長野県佐久市の龍岡(たつおか)城です。幕末に作られた星形をした西洋風の城郭で、北海道函館市の城と同様「五稜郭」と呼ばれています。
【動画】龍岡城を訪ねて
幕末の田野口藩主・松平乗謨が築城
「五稜郭」とは、五つの稜堡(りょうほ)を持つ星形をした城の総称だ。一般的に連想されるのは戊辰(ぼしん)戦争の舞台になった北海道函館市の五稜郭だが、実は日本国内にはもうひとつ五稜郭が残っている。それが、長野県佐久市の龍岡城だ。
龍岡城は、函館の五稜郭と同じ幕末に築かれた城だ。三河国(現在の愛知県東部)を本拠とした大給(おぎゅう)松平氏の松平乗謨(のりかた)が築城した。大給藩は1684(貞享元)年に1万6000石で三河に成立し、1704(宝永元)年に飛び地1万2000石と交換する形で佐久郡内を領地とした。1711(正徳元)年に三河国内で本拠地を移して奥殿藩に改称され、1852(嘉永5)年に松平乗謨が11代藩主となった。
1863(文久3)年に奥殿から信濃の佐久に本拠地を移転したことから田野口藩へと改称。移転後、松平乗謨は新陣屋となる龍岡城(田野口陣屋)の建設を申請し、許可を得るとすぐさま着工し、1867(慶応3)年に竣工させた。田野口藩が1868(慶応4)年に龍岡藩に改称されたことから、龍岡城と呼ばれている。

〈幕末の動向反映する全国の台場〉や〈五稜郭 幕府の威信と戊辰戦争終焉の地〉で触れたように、この頃はペリー来航を受けた開国の激動期だ。全国の沿岸部に800〜1000カ所の台場が築かれ、開港した箱館ではフランス式の設計を取り入れた五稜郭や四稜郭、松前藩戸切地(へきりち)陣屋などが築かれた。いずれも大砲の攻撃を想定しているのが特徴だ。
佐久は内陸にあり外国船の攻撃に備えたとは考えにくいが、松平乗謨は江戸幕府の老中格、若年寄で、西洋の事情に精通していた。そうした背景から、フランス式の稜堡を取り入れた龍岡城を築いたようだ。近隣の陣屋は長方形の区画を堀や土塁で囲む形式が多く、龍岡城はこの地域では異質な陣屋といえるだろう。

パズルのように隙間なくはめこまれた石垣
龍岡城は函館の五稜郭と同じ星形をしているが、規模は函館の五稜郭と比べるとかなり小さく、星形の部分の面積は四分の一ほどしかない。星形の稜堡を土塁、石垣、堀が囲むが、幕末の逼迫(ひっぱく)した財政事情からか西側から南側にかけては未完成で、この面には堀がない。
この星形に囲まれたエリアを内郭とし、外側には矢来柵(やらいさく)土手で囲まれた外郭が置かれていた。北西に300メートルほどのところ、石碑や龍岡城解説板、新海三社神社鳥居が立つ場所に、北の入口にあたる鉤(かぎ)の手状の枡形(ますがた)が残っている。

大きな特徴は、版築による星形の稜堡と、そのまわりをめぐる石垣だ。石材が成形された切込接(きりこみはぎ)の石垣が印象的で、函館の五稜郭と同じ「はね出しの石垣」も幕末に積まれた石垣の特徴だ。多角形の石材を組み合わせた亀甲積みも随所に見られる。使われている佐久石や志賀石と呼ばれる溶結凝灰岩は、軟らかく加工しやすい。パズルのように隙間なくはめ込まれた石垣を見ているだけで楽しい。


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生徒さんは空撮の学校を見たらきっと驚くでしょうね。
歴史のある学校って素敵です。