「かわいい!」と心ときめくドーナツ ふわふわなのにおなかを満たす/chigaya kuramae、chigaya morishita

アメリカ・ニューヨーク(NY)でスタイリストをしていた仲山ちがやさんは、湘南にあった一軒の古い空き店舗を見た瞬間にパン屋をやることに決めた。同行していた恋人(いまの夫)にそう伝えると、驚いたようだった。「えっ、パン屋に勤めたこともないのに? 看板商品なんなの?」
そのとき、思わず口をついて出た言葉は「ドーナツ」。ドーナツについてそれまでことさらに考えたこともなかったのに。でもそれは遠い存在だからではなく、むしろあまりにも近すぎてだ。NYでドーナツはいつも身の回りにあった。朝食で、カフェで、おやつで。ブルックリンの「ピーターパンドーナツ」や、マンハッタンの「ドーナツパブ」。お気に入りのドーナツショップは、ちがやさんの居場所だった。
一度も作ったことがないのに看板商品だなんて、と思い、翌日すぐにドーナツを作ってみた。ちがやさんはレシピを見ない。材料の欄あたりをふわっと見て、あとは自分のイメージと直感、手近にある材料で作ってみる。ちがやさんがなにかを作るとき、参照するのは過去の思い出だ。記憶を遡(さかのぼ)ってみると、思い浮かんだのはドーナツそのものではなく、おばあちゃんの作ってくれたホットケーキだった。卵とメープルシロップの風味にあふれ、ふわっと気持ちよくふくらんで、あたたかな。

自らの手を動かし、思い出を具現化した。食感が重くなる国産小麦ではなくボリュームの出る外国産小麦(北米産の一等粉)に、気持ちのいい歯切れと口溶けを与えてくれる薄力粉(北海道産)、そして卵をたくさん。なによりふわふわするし、ホットケーキらしい甘い香りの元になる。
ふわっと口に入ってむにっとし、すーと消えていくドーナツ。はかなく、跡形もなく。口の中は甘く、おなかはいっぱいに、でも夢のように過ぎ去っていき、記憶の中だけにある。それはまるで、空にふわふわ浮かぶ自由な雲のようでありながら、いまここにあっておなかを満たす堅実具体的な食べ物。決して同時に満たしえない2点を往復するかのように。

イベント用に1日300個、3日で900個ものドーナツを作ったことがある。その頃の作り方は独特なものだった。ベーグルのように、伸ばした生地を輪っかにつないで作る。昼夜問わずぶっつづけで輪っかをつなぎつづけ、あまりに疲れ、ドーナツを作りながら一瞬夢を見た。自分は外国人のおばあさんで、どこか異国の街でドーナツショップを営んでいる。おばあさんとしての自分は、輪っかをつなぐのではなく、伸ばした生地を型抜きしてドーナツを作っていた。やってみると、そっちのほうがきれいに速くできる。夢は、誰かがちがやさんに出した助け舟だったのか。このおばあさんが自分の前世、あるいは遠い未来だと思うことがあるという。
東京にも店を構えた。日本橋のおしゃれなフードコート「COMMISSARY」内にある店舗は、NYのドーナツパブの思い出に捧げられている。白いカウンター、そしてドーナツは日本のように客の前に並べるのではなく、店員さんの背後の棚から取って渡す。
スタイリスト修業をしていた時代。その頃はお金がなく、物価の高いNYではスターバックスに行くことさえままならなかった。ドーナツパブならコーヒーもドーナツも1ドル。深夜、夜勤明けの労働者やクラブ帰りの若者がたむろする店でドーナツを食べていると「今日はいいことがあったんだ。おごらせてくれ」と見知らぬおじさんにドーナツをごちそうになることがあった。「1ドルで夢を見られる場所」とちがやさんは表現する。

1ドルではなく二百数十円だが、東京・蔵前の店舗「chigaya kuramae」もそのような場所だ。扉を開けると、ここではないどこかへとトリップできる。どこの街かはっきりとはわからない、無国籍などこか。旅行で訪れたいろんな国々で買い集めた雑貨が置かれる。赤い格子縞(じま)のカーテンは、外国のティールームのようでも下町の純喫茶のようでもある。記憶と現実と夢を混ぜこぜにしたような場所。
「『かわいい』ってときめくお店を作りたいんです」

カスタードクリームのドーナツには、チェリーとクリーム。ちがやさんは赤と白のその可憐(かれん)な姿を見たいばかりに、近所の喫茶店でプリンやクリームソーダを頼んでしまうぐらい好きなんだという。内部の空洞からあふれだすカスタードクリームに生地が洗われ、消えていく。なつかしさと新しさ。もっちりとさっくり。食べ応えと軽さ。リッチさとさっぱり感。このドーナツもまた、決して共存しえない二つの点に奇跡のように共存する。
YouTubeチャンネル 「パンラボ」
隅田川を越えたところに、ちがやさんは新しく「chigaya morishita」をオープンさせた。そこもまたなつかしくて新しい場所だ。古い3階建てのビルに入ると、純喫茶のようでも、海外のカフェのようでもあるカウンターが伸び、パンが陳列されている。2階はどうなっているだろう。細くて急で暗い階段を上がるときにはどきどきする。日当たりのいい部屋に大きなダイニングテーブルがあり、そこにはやっぱり格子縞のクロスが待っていた。ドーナツとコーヒーがとても映えるしつらえだ。
ちがやさんは毎日いろいろなパンを作るけれど、それでも、プレーンドーナツのプライスカードにこのように書いている。「私の全て」
chigaya kuramae
東京都台東区鳥越2-8-11
03-5829-5809
8:00~18:00 無休
chigaya morishita
東京都江東区森下3-5-11
10:00~18:00 月休