東京の台所2
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〈250〉21歳春。実母と縁を切る

〈住人プロフィール〉
21歳(女性)・専門学校3年
賃貸アパート・1K・東西線 葛西駅(江戸川区)
入居4年・築年数20年・ひとり暮らし

    ◇

 18歳まで、躁(そう)うつ病(双極性障害)の母と家事や働くことに関心を持てない祖母の3人で暮らした。父は生後半年で離婚したので顔を知らない。
 家の収入は、祖母の年金と母の障害年金、生活保護が全てだった。

 生活は苦しく、祖母は料理嫌いで、野菜炒めが毎日続いた。生活保護費が入ると、母は洗剤や洋服など同じものをたくさん買い込んでしまうので、すぐに家計が揺らぐ。そのうえ、家はもので溢(あふ)れかえっていた。

 修学旅行用に、飲食店でバイトをして貯めたお金も、母から「1万円貸して」と始終求められ、応じないと荒れる。返済されたことはない。

 「母は外出すると、近所のスーパーなどあちこちでクレームを言っては喧嘩(けんか)になったり問題を起こしたりするので、娘であるとばれないように、いつも気を使っていました」

 魚も肉も実家で食べたことがない。でも欲しい物や食べたいものが手に入らないからといって、悲しくなることはなかった。
 「いつもお金がないので、物欲もないんですよね。一瞬“いいな”って憧れても、“でもな”が必ず入る。望んでも叶(かな)わないのがわかっているので。物欲が生まれたのって、じつはごく最近。成人してからなんです」

 愚痴っぽくも、恨みがましくもない。淡々と達観したような口調が、年齢より落ち着きを感じさせる。
 「病気だから母だけが悪いわけではない。それと私は学校が楽しかったので。部活や友達に救われていました」

 学校では忘れたかったので、家庭のことは話していない。それがよかった。普通の中学生、高校生として明るく振る舞えた。ただ家では、母が暴れて物を壊したり壁に穴を開けたり、薬の過剰摂取や自殺未遂で入院したときなど「このまま電車に飛び込んだら楽かなって思ったことは1、2回あります」。

 “高校を卒業したら絶対にこの町を出る”。それだけを心の支えにのりきった。

 「母の病名が確定したのは小6のときでした。そのとき、絶対に家を出よう、そうしなかったら母につきっきりの人生になってしまう。高校卒業までに、絶対学費と資金を貯(た)めようと決めました。貯められなかったら私の負けだと」

 自分の運命に負けたくない。穏やかな言葉の行間に強い意志がにじむ。

 しかし、高校を卒業して、デザインを学ぶ東京の専門学校に進んでからも、二十歳の誕生日まで母との地獄は続いた。

〈250〉21歳春。実母と縁を切る

 「火が通るってなに?」「小さじって?」

 「専門学校の学費や上京資金を貯め、ほぼ目処(めど)がついていた卒業目前の2月。母が突然、お金を持って男の人と家を出ていってしまって。新生活準備のため控えめにしていた卒業式後のバイトもフルで入れて、なんとかしのぎました。保証人がいないので東京のアパートは3月20日まで決まらず、もちろん家財道具もありませんでした」

 生活保護を通して家庭の状況を知っていた市役所の職員が気にかけて、何度も「大丈夫ですか」と連絡をくれた。正直に話すと、東京の不動産屋との交渉や引っ越しの手配、リサイクルの洗濯機や冷蔵庫、家具の用意までしてくれた。

 さらに、「業務外なので本当はいけないのですが」と言いつつも、休日に自分で車を運転して、東京まで家財と一緒に彼女を乗せていってくれたらしい。
 
 地下鉄・葛西駅から徒歩10分の小さな古いアパートに、大きい冷蔵庫やこたつ、ベッドが揃(そろ)っていたのはそういうわけだったのか。

 「本当にあの方には助けられました。あれ以降、実家に帰っていないので、お礼も言えてないのですが……」
 
 週3、4回、ドラッグストアや学内の授業チューターのバイトで稼ぎ、学校の成績優秀者への給付金と奨学金で暮らしてきた。
 「ある日、専門学校の友だちに親のことを話したら、“すごい”って明るく言われて、“え?”ってびっくりしたんです」

 そんなすごい環境でよくここまで来たね。
 本に書いたら印税で生活できるよ!
 お母さんの話がいちいちすごすぎて、おもしろい。

 しんみりされたり同情されるより笑い飛ばしてくれる方が楽だという。東京では、私の家のことを誰も知らない。それが自由でありがたかった、と彼女は朗らかに語る。

 100円ショップで買い揃えた最低限の調理道具と、母が機嫌のいい時に買ってくれた鍋で、初めてベーコンを焼いた。が、まんまと鍋を焦がしてしまった。

 「“火が通るまで炒める”って、どこまでやれば火が通ったのかがわからなくて。母は料理をしないし、いつも祖母の炒め物一皿だったから。小さじも見たことがなくて」

 ユーチューブを見たり、友だちを呼んで作ってもらったりして、少しずつ料理を覚えた。よく作るのは野菜と魚の料理である。

 「お肉は、中まで火が通るっていうのがわかりづらいので。野菜は生で食べられるでしょ? 揚げる、蒸すも私にはまだ難しい。だから焼き魚か煮魚。初めてブリの照り焼きを作ったときはおいしくて感動しました。これがブリっていう魚かーと」

 それでも、定期的にパニックを起こす母からはひっきりなしに電話が来る。出なかったら何十回もLINEや着信が入る。一度出ると、何時間も切ることができない。朝起きたら「眠れない」というメールや電話が20件ほど入っていたこともある。それだけではない。

 「上京してからも、何度もお金を貸しました。貸さないと言うと、不動産屋に電話して賃貸契約を切るとか、奨学金の契約を解除するとか言われるので。もし奨学金を切られたら退学、帰郷しかない」

 2年生の5月。
 「新しい彼氏と神奈川で入籍したから」と一方的に連絡が来た。名字を変えるとなると、奨学金の申請書類から学校や不動産関係の書類も全部出し直さねばならない。相手の男性も同じ病気で無職と聞き、ますます不安は募った。
 嫌だと言うと、「妊娠したから。産むから」。

 呆然(ぼうぜん)としながら過ごしていた3週間後、「離婚した」。翌週には「流産した」。
 自殺未遂をしたときは警察から連絡が来て、迎えに行ってアパートに泊めた。

 二十歳までは様々な契約をするのに、保証人が必要になる。だから誕生日を待ちに待った。成人した日、ああもうこれで母に「ノー」をはっきり言えると魂が解放された。

 まもなく卒業し、春からは晴れてメーカーで傘のデザイナーになる。就活の過程で、学校の講師から何度尋ねられてもなかなか答えられず、苦労した問いがあった。

 「私はなんのデザインをしたいのかという問いかけです。デザイナーにもいろいろあるので。私は何が好きで、どのジャンルに進みたいのか。友達はグラフィックや商品のロゴパッケージなど、希望を言えるんだけど、私は言えなかった。成人して、自分で稼いだお金を初めて全部自分で使える。それだけで幸せで、自由で、ありがたくて、その先の夢がなかなか出てこなかったんです。この暮らし自体が私にとっては夢のようなものだから」

 就職を機に転居して、母親と縁を切ると決めている。住所も会社も、もちろん銀行口座もどれも伝えない。

 「火が通ったかな、まだかなって思いながら料理ができることも、友達とディズニーランドに行けることも幸せ。この前、少し貯めたお金で、カップヌードル型の加湿器を買ったんですよ。デザインの面白さに惹(ひ)かれて。好きなお醤油やオリーブオイルも買える。安いからという一択ではなく、自分で“選べる”ことが嬉(うれ)しいです」
 
 彼女はなぜ、『東京の台所』に応募してくれたのかを聞いてみた。
 「これから社会に出る。新しく知り合った人たちに、“私の生い立ちはこうです、私はこんな人間です”って、読んでもらえたらいいなって。そしたら説明しなくてすみますもんね!」と、最後は冗談交じりに笑った。

 これから奨学金の返済も始まる。親がどこかのつてを頼って探し出さないとも限らない。
 それでも、多様な人間を受け入れる東京という街で、つましいながらも二本の足で立ち、自分の運命を切り拓(ひら)いてきた21歳の門出を、手放しで祝福せずにはいられない。きっと、彼女が肉料理に挑戦する日も遠くないはずだ。

〈250〉21歳春。実母と縁を切る

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