「僕の妻はウクライナ人」ロシアから届いた言葉で思い出した、ある夫婦の志

「国境なき衣食住」は、国際NGO「国境なき医師団(MSF)」の看護師として紛争地や危険地に赴任してきた白川優子さんが、医療・人道援助活動の傍(かたわ)らで出会った人々、触れ合った動植物、味わった苦労や喜びについて、哀歓を込めてつづるエッセイです。
ロシア人の知人から悲痛なメールが届いた。「僕の妻はウクライナ人なんだ」。ランチを終え、さて仕事を再開するか、という私としてはごく日常の昼下がり。普段の明るいやり取りから一転、ロシア人である彼のウクライナでの戦争に対する大きな悲しみと深い嘆きが、パソコン画面いっぱいに広がった。
いったいどんな言葉が彼の気持ちに寄り添えるだろうか。返信を打つ手に力が入らないまま時が過ぎた。やっと送信を押した時には2日も経過していた。戦争はいつでも人々の日常を壊す。
彼の奥さんがウクライナ人ということを初めて知った。この夫婦のように、国籍や民族、思想や信仰を超えた市民レベルでの人々の結びつきを、国境なき医師団(MSF)の派遣人生の中でたくさん見てきた。
スリランカで出会った若い医師の夫婦
多くの紛争地でたくさんの一般市民と接してきたからこそ想像できるのは、今回の戦争を他の多くのロシア市民たちも望んでいないのではないか、ということだ。戦争はあくまでも権力を手にした一部の人間たちの不条理な行いだと思う。
ロシア人の知人の言葉を読んで、かつて、MSFで初めて私が派遣されたスリランカで出会った、ある若い医師の夫婦を思い出した。今回は、夫婦の思い出を紹介したいと思う。

スリランカ北部のポイントペドロと呼ばれる小さな村での話だ。スリランカでは、シンハラ人率いる政府軍とタミル人率いる武装組織の間で20年以上も続いた内戦があった。私が派遣されたのは終戦の翌年、2010年のことだった。
ポイントペドロには総合病院があり、救急室、外来、手術室のほかに7つの病棟を備えていたが、当時勤務していた医師はたったの10人ほどだった。この夫婦はそのうちの2人で、絶対的な医師不足の中での貴重な人材だった。MSFも戦時中から長きにわたって多くの医師を継続的に海外に派遣し、病院の医療活動を支えていた。
戦争が終わったとはいえ、一度負った傷というのは心も身体も完全に治るまでには時間がかかる。私は戦時中に怪我を負った患者さんをケアする手術室と外科病棟を担当していた。

「シンハラ人」と知ったときの驚き
この夫婦が共にシンハラ人だと知って驚いた。というのも、ここスリランカ北部のほぼ一帯は、シンハラ人と対立してきたタミル人が住む地域だったからだ。おまけにここは政府によって高度警戒地域に指定され、人と物の出入りを徹底的に管理されていた。
つまり、監視対象にあるタミル人がこの地域から政府の許可なく出られないのは明白だった。自由な身であるシンハラ人も、この警戒地域には容易に入れなかったはずだ。もしこの地域にシンハラ人がいるとしたら、それは戦車に乗り、ライフルを持ってタミル住民を常に監視している政府の軍人だけだと思っていた。
北部に住む一部のタミル人達によって、政府軍に抵抗するゲリラ組織が形成されたのは事実だ。終戦は迎えたものの、政府側はゲリラ組織の復活を警戒し、北部一帯の地域の徹底的な監視と出入りの規制を行っていたのだ。