情緒ある八幡堀、山上にそびえる圧巻の高石垣 八幡山城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は滋賀県近江八幡市の八幡山(はちまんやま)城です。豊臣秀吉の跡を継いで関白となった豊臣秀次が、城下町や水路「八幡堀」とともに造った城です。自然の地形も生かした巧みな設計力が感じられます。
【動画】八幡山城を歩く
八幡山のふもとを取り巻く八幡堀
風情ある八幡堀が観光地としても有名な、八幡山城。八幡堀は城と城下町を隔てる人工の水路で、標高約283メートルの八幡山(鶴翼山)山頂にある八幡山城の山麓(さんろく)を取り巻くように蛇行しながらめぐっている。現在は干拓されているが、かつて八幡山の西側には津田内湖、東には大中の湖(だいなかのこ)が広がり、八幡堀は西側は津田内湖から琵琶湖へ抜け、東側は北之庄沢から西の湖へ抜けていた。
八幡山城は、1585(天正13)年に近江43万石を拝領した羽柴秀次が築いた。秀次は羽柴(豊臣)秀吉の姉の子で、後に秀吉の養嗣子(ようしし)となり豊臣姓を受けて関白となる人物だ。秀吉に後継者がなかったことから家督を相続したが、謀反の疑いをかけられ、1595(文禄4)年に秀吉の命令で切腹している。
秀次は1590(天正18)年には八幡山城を離れており八幡山城には京極高次が2万8000石で入城していたが、秀次の自害を機に八幡山城もゆかりの城として破却されたとみられる。この年に、京極高次は大津城(大津市)へ移っている。

尾根二つと八幡堀が居館部を包み込む
八幡山城は、山上の城と山腹の居館とのセット構造が特徴だ。四つのエリアに大別され、本丸を中心とした山頂部分、山頂から南東方向の尾根上の曲輪(くるわ)群、山頂から南西方向の尾根上の曲輪群、山腹の居館部から構成される。谷部にある居館部を、両側の尾根が壁となって挟み込む。さらに、山麓に八幡堀をめぐらせて防御線としているのだろう。
八幡堀は水運の要だった琵琶湖と城下をつなぐ運河であると同時に、城を守る防衛線でもあったはずだ。また、八幡山城の北側尾根の峰には、八幡山城と緊密な関係が考えられる北之庄城(深谷・岩崎山城)も存在する。

八幡堀の完成年は定かではないが、築城時に並行して建設されていたようだ。1586(天正14)年に、街道の往来や琵琶湖を航行する船舶に対して八幡浦への寄港を命じる掟書(おきてがき)が出されている。秀次は城下町の整備にも力を入れており、後に近江商人発祥の地といわれる八幡山城下の礎を築いたといえそうだ。

城下には織田信長が築いた安土城(近江八幡市)に関連する地名が残っており、信長が安土城下に集めた商人を移住させて商業都市をつくったようだ。八幡山築城時の秀吉家臣団の配置をみると、水口岡山城(滋賀県甲賀市)には中村一氏、長浜城(滋賀県長浜市)には山内一豊、佐和山城(滋賀県彦根市)には堀尾吉晴が入っている。八幡山城は近江支配の拠点としての一翼を担い、それに見合う城と城下町づくりが進められたことがうかがえる。
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戦国時代の歴史が好きな人には滋賀旅はとても楽しいですよね。八幡堀の風情ある景色は私も大好きです!