東京の台所2
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〈254〉「ワイン一杯とタバコを」。救急車を待つ彼は最期に言った

〈住人プロフィール〉
46歳(女性)・会社員
賃貸マンション・1DK・銀座線 外苑前駅(渋谷区)
入居半年・築年数25年・ひとり暮らし

    ◇

 揚げ物、煮魚、焼き魚、スパイシーなものは部屋に臭いが残るので禁止。花は白色のみ。家具やファブリックはモノトーンで。
 所帯じみたものが嫌いで、美しいものに囲まれた世界が好きな、自分のスタイルを崩さない人だった。会社で出会ったとき、周りから口々に“あの人には気をつけたほうがいい”と助言されるほど女性遍歴が華やかで、48歳まで独身。飲み会では後輩には絶対に支払いをさせない。
 彼女の言葉を借りると、9カ月前に亡くなった夫は「美意識が服を着て歩いているような。ハードボイルドな人」だった。

 2年間の交際、6年間の結婚生活で泣いたのを一度だけ見たことがある。
 「理不尽な人事で退職に追い込まれた後輩を“守りきれなかった”と。いつも明るく強い人なのですが、そのときだけは帰宅するなり崩れ落ちるように私を抱きしめ、肩が震えていました」

 前職で成果を出し、後進を育成したいと彼女の勤め先に中途入社してきた。
 いっぽう彼女は、幼いときから自分に自信がなく、積極的なコミュニケーションや、特定の人に深入りするのが苦手だった。
 「自己肯定感が低く、相手の反応が気になりすぎちゃってうまく話せないんですよね。男性とふたりでご飯というのもすごく苦手でした」

 偶然同じ岩手出身ということで話が弾み、37歳で交際に踏み出したのは、“彼だと疲れない”という不思議な心地よさからである。

 「気楽な同郷のおじさんという感じで会っていたので、緊張しなくてすんだのかも」

 前述のように、美意識や生活感についてはこだわりが強い。「家が汚れるので料理はしなくていい」という志向で、毎晩「今日は何を食べたい?」と聞かれた。酒に目がない彼は、飲みたいものに合わせて店を提案する。そんなマイペースなふるまいも、苦ではなかったという。
 「お互い初婚で、いい年なので。そりゃあこだわりもそれぞれにあるよなと。この人の素敵な雰囲気をそのこだわりが作っているのなら、それでいいじゃないって思えたのです」

 彼と付き合うまで、彼女は家で酒を飲んだことがほとんどない。ワイン、日本酒、ビール。酒に合わせて料理をマッチングさせるのは楽しく、とりわけワインの奥深さに魅了されていった。
 「実家はしつけに厳しく、食事は緊張感に満ちていた。ところが彼とは、毎晩2時間くらい飲みながらずーっとお互いにおしゃべりをしている。食事にはこんな楽しみがあったのかと」

 元来料理が好きな彼女が、家で作るようになったきっかけは胃腸炎で寝込んだ彼に作ってあげた、なんでもない野菜スープだ。
 「あーおいしいなあって、体はフラフラなのにおかわりをしたんです」

 以来、徐々に家での晩酌と食事が増えていった。「ふたりとも働いているのだから、自分のために手間を取らせるのは申し訳ない」という理由もあったのだと、ずいぶん経ってから聞いた。
 「わがままで自分勝手だけど、実は繊細で傷つきやすい。そこは似た者同士でもあったんです」

 玉ねぎを飴(あめ)色になるまで炒めて作るキッシュ、クリームシチュー、豚汁、オムライス、麻婆茄子(マーボーナス)。いつもおいしいおいしいとニコニコしながら平らげる。
 そんな日々を重ねることで、外で食べていた頃とは違う絆の深さが少しずつ確実に増していくのを実感した。

 「食卓で同じものを食べるのを繰り返して、人って家族になっていくんですね」

 だが結婚3年目。突然、闘病が始まる。酒とタバコが大好きな彼の肝臓と肺が、悲鳴を上げだしたのだ。

〈254〉「ワイン一杯とタバコを」。救急車を待つ彼は最期に言った

「彼は私が殺したようなもの」

 昨年亡くなるまでの3年間は、入退院を繰り返した。当初本人は「肝臓の数値がよくない」と軽く言っていたが、あまりに体調がすぐれないので彼女はむりやり診察に初めて同行した。医者は厳しい表情で明言した。
 「お酒をやめてって言ったのにやめてないよね。このまま続けたら、1年もたないよ」

 持病の特発性間質性肺炎に肝硬変を併発していると聞かされたその日から、苦しいバトルが始まる。

 「一緒にお酒をやめよう」というと、同情されるのが嫌いな彼は強く否定する。
 「俺はお前が酒飲んでケラケラ笑ってるのを見るのが好きなんだ。だから俺はやめてもお前はやめるな」

 しぶしぶ、彼の傍らでひとり飲むワインはなんの味もしなかった。
 長年の飲酒の習慣がそう簡単に断てるわけもない。隠れて彼が飲んでいるのを見つけるたびに喧嘩(けんか)になり、泣きながらシンクにボトルの中身を捨てた。
 どんなに泣いて止めても、酒とタバコをやめない。
 3、4カ月バトルが続くと、彼女も心身ともに疲れきった。

 「こんな生活がいつまで続くのか。明日? 来年? 3年後? 先が見えないなか、毎晩飲む飲まないで喧嘩をして、お互いに悲しい気持ちで過ごすのもやりきれなかった。ちょうどコロナでリモートワークも重なり、彼にしてみれば人にも会えない、大好きな仕事もお酒も取り上げられたあげく、私には泣かれる。これは生きながら死ぬようなものじゃないかと考え始めたのです」

 2021年3月。彼女が出した結論は、「彼の生きたいように生きる意思を尊重する」。
 好きなことだけを追い求めてきた彼は、病気になる前からよく「太く短く生きたい」と言っていた。腹水がたまり、緑内障も進んだ今の生活で、楽しめることはおいしいご飯とワインを飲むことだけだ。死ぬよと言われてもやめないのは彼の意思表明だ。ならば、最後まで好きに生ききってもらおうと思った。

 それから亡くなる7月まで毎晩ワインを飲み、ベランダでタバコを吸った。

 交際しているときから、出かけるときにおしゃれをすると「いいね、似合うよ!」とほめてくれた。「俺に不満があったら溜(た)め込まず、何でも言っていいんだよ」。「どんどん自由に、やりたいことをやって言いたいことを言い合って、仲良く暮らそう」ともよく言っていた。
 バトルの日々が噓(うそ)のように、そんな以前の彼が戻ってきた。体重も飲める量も減る一方だったが、毎日晩酌の時間は笑いあった。

 「彼と付き合って、私は初めて自信を持てるようになったんです。そして自分の思うように自由に生きること、自分の気持ちを大事にすることを学びました」
 その学びは最後まで続いた。

 かつて、近所のワインショップでたまたまボジョレーの、ある自然派ワインを薦められた。
 「小さなワイナリーのもので、この作り手はもうワインを作ってないんですよ。だからこれがラストヴィンテージです」と。
 早速飲んでみると、イチゴとバラのリキュールに土とスパイスを溶かしたような、エレガントで複雑で驚くほどピュアな味わいだった。追加で3本購入し、「最後にふたりで飲むワインはこれにしよう」と約束した。

 それからいくつか季節が過ぎ、夫がぼーっとすることが数日続いたある日、部屋で倒れた。救急車を待つわずかな間、彼は鬼気迫る表情で言った。
 「ワイン一杯とタバコをくれ」
 こんなときになにをと思いながらも、あまりの真剣さに気圧(お)され、タバコとワイングラスを手渡した。前者はうまそうに一服。後者はなめるくらいしかできなかった。

 「そのまま病院で息を引き取りましたが、私はあのとき飲ませなかったら一生後悔して泣いて暮らしていたと思います。最後の数カ月、お酒もタバコも許したことも後悔していません。ですから、彼は私が殺したようなものなのです」

 自若とした口調で彼女は語る。
 死に顔は、すーっと眉間(みけん)のシワが消え、「きれいな優しい顔」だった。
 翌日、岩手から駆けつけた義父母に、酒やタバコをやめさせなかったことを責められてもしかたないと覚悟をしていたが、「ありがとうね」と頭を下げられた。そして最後にふたりで飲もうと約束していたあのワインを霊安室で抜栓し、彼の唇に含ませた後、皆でグラスを傾けた。

 「救急車を待つ間に飲ませたワインは、冷蔵庫にあったありあわせのものでした。彼は腹をくくりそう言ったのかもしれませんが、私は最後になるとは思っていなかったので」

〈254〉「ワイン一杯とタバコを」。救急車を待つ彼は最期に言った

ワインの名

 ひとりには広すぎる部屋を引き払い、半年前、現在の1DKに越した。家具調の仏壇は彼が嫌うに決まっているので、キャビネットに写真とワインボトルとタバコの箱を置いた。夕食時は一杯のワインと好物のオリーブを毎日供えている。
 賃料の安い郊外も考えたが、都会暮らしを愛した写真の中の彼のために前の部屋からも近いこの街にした。近所にふだん使いのスーパーがない不便さはあいかわらずで、食材はネットスーパーを利用している。

 すっかりワインが趣味になり、「コレクターにならないように」と自分を戒めながら、8本入りのワインセラーを愛用。平日はフルタイムで働いているので、土日は昼過ぎから簡単なつまみとお気に入りのワインで、写真に収まった彼と乾杯を。

 「でもひとりだと何を作っても飲んでも、いまひとつおいしくないんですよネ」
 つぶやきとともに彼女は2杯目を飲み干す。取材が終わったらぜひご一緒にとキッシュにナイフを入れた。玉ねぎの甘さがバター風味の生地に調和した、感嘆する旨(うま)さだった。
 「このキッシュ、夫も大好きで。……あ、亡くなってからこれ作るの、今日が初めてです」

 こんな話できすぎでしょうと言われそうですが、と彼女は例の約束のワイン名を教えてくれた。
 「“旅立つ前の最後の一杯”というんです」

 残るは2本。1本は自分の最期のためにとっておくそうだ。

 彼の好物をもう一度作れるようになるまでに9カ月かかった。最後の晩餐(ばんさん)の話をしたのもきっとこれが初めてだろう。時間薬という言葉があるが、彼女を今支えているのは時間ではなく、後悔のない時間を彼に贈ったという真実である。
 どんな人生の閉じ方をするか。人それぞれ答えは違う。遺(のこ)された人が胸を張って生きられる答えを導いた彼は見事というしかない。

〈254〉「ワイン一杯とタバコを」。救急車を待つ彼は最期に言った

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