大坂城を守る城から大坂城と対峙する城へ 伊賀上野城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は三重県伊賀市の伊賀上野城です。築城当初は豊臣秀吉の大坂城を守る存在でしたが、やがて大坂城と対峙(たいじ)する城へと変化していきました。それは……。
【動画】伊賀上野城を訪ねて
「伊賀流忍者発祥の地」にある城
伊賀上野城のある三重県伊賀市は、伊賀流忍者発祥の地とされる。市内にある伊賀鉄道伊賀線上野市駅は駅舎に愛称「忍者市駅」の看板を掲げるほど、伊賀といえば忍者の街なのだ。忍者の起源は諸説あるが鎌倉時代ともされ、荘園領主に抵抗した「悪党」の術が、やがて寺社勢力の衰退に伴い戦国大名に従う忍びとなったと考えられるという。江戸時代には参勤交代時の護衛などを担うなど、時代に応じて役割を変えた。
戦国時代の伊賀の忍者(伊賀衆)は相当な力があったようで、1578~79(天正6~7)年の第一次天正伊賀の乱では、北畠信雄(のぶかつ、織田信長の次男で伊勢国司)の軍勢を撃退している。これを受け、1581(天正9)年の第二次天正伊賀の乱では4〜5万の織田軍が進軍。殲滅(せんめつ)戦の末に伊賀全土を平定したこの戦いで、伊賀地域は焼け野原になったとされている。

高さ約30メートル トップクラスの高石垣
伊賀上野城が築かれたのは、信長没後のことだ。伊賀上野城の代名詞は、日本でトップクラスの高さを誇る圧巻の高石垣。本丸西側は南西隅から北東隅までが長さ約368メートルの石垣で囲まれ、もっとも高い本丸西側は高さ約30メートルにも及ぶ。
この高石垣を築いたのは、1608(慶長13)年に22万石で伊賀に入り、1611(慶長16)年から城を大改修した藤堂高虎だ。高虎は宇和島城(愛媛県宇和島市)や今治城(愛媛県今治市)を築いた築城名人として知られ、二条城(京都市)や江戸城(東京都千代田区)、篠山城(兵庫県丹波篠山市)、大坂城(大阪市)の縄張(設計)などに携わるなど、江戸時代の城の規格をつくった人物である。徳川将軍家の息がかかった城は、ほぼ高虎の発想で築かれたといってよい。

豊臣政権下で筒井氏がまず築城
高虎が大改修した前身の伊賀上野城は、豊臣秀吉政権下で誕生した。秀吉の命で伊賀に入った筒井定次が1585(天正13)年から築城している。
秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が戦った1584年の小牧・長久手の戦いの後、秀吉は天下統一に向けて対家康を意識して各所に大名を配置した。大和・和泉・紀伊100万石で郡山城(奈良県大和郡山市)に羽柴秀長が入ると、旧郡山城主の筒井定次は伊賀へ移封となった。そこで新たに築いたのが伊賀上野城というわけである。筒井定次は、伊賀惣国一揆の評定所があった上野山平楽寺跡に築城を開始した。

筒井時代の本丸は、高虎時代の城代屋敷跡にあったとみられる。現在、筒井古城と呼ばれている一帯だ。高虎は、筒井時代の旧本丸西側に広がる丘陵を切り開き、城域を拡張して新たな本丸としたのだ。

城代屋敷跡からは秀吉政権との関わりを示す桐紋の瓦や同時期の遺物が発掘調査で見つかっており、筒井時代に中心地であった可能性を示す物的証拠となっている。旧本丸北東隅にかつてあった高さ5メートルほどの高まりが天守台とも考えられ、1633(寛永10)年に倒壊するまで筒井時代の天守とみられる建物が建っていた。
旧本丸北西部の石垣では、解体修理の際に高虎時代の石垣内部から筒井時代とみられる石垣も検出されている。小さな石材を用いた野面積(のづらづみ)の石垣で、勾配も緩い。石塔類などの転用石も確認されている。

どこか中世の城を感じさせる城代屋敷跡北側の巨大な横堀は、筒井時代に穿(うが)たれた空堀に高虎が手を入れたものとみられる。かつては本丸を囲む防御線の一部だったのだろう。俳聖殿付近の堀切も、筒井時代の北側を守る防御設備の名残と思われる。
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城には役割がある。今回の記事は拝読して特にそれを感じました。それにしても石垣が美しい!
写真に写る我が母校運動場、高校の校歌の中に、
♪ 城の石垣底深く、堀に据えたるさまを見る、崇高堂を庭つづき、学のしづけきさまを見る
があります。
懐かしく故郷の城の歴史を学びました。