大坂城を守る城から大坂城と対峙する城へ 伊賀上野城

「対家康」を意識した筒井時代の城
伊賀上野城の最大の特徴は、筒井時代と高虎時代とで、城の向きがまったく異なることだ。筒井時代は防御上の力点が北向きなのに対し、高虎時代は西向きにがらりと改変されている。大手道と城下町も、筒井時代が北側に展開していたのに対し、高虎時代は南側だ。
その違いは、社会情勢の変化が関係する。前述のように、秀吉家臣として築城した筒井定次の城は対家康を意識した城だ。注目は、城下町が北側につくられていること。本丸北側に大手口があり、東西に走る大和街道を取り込む形で城下町が形成されていた。
大和街道は三重県亀山市にある東海道との分岐点「西の追分」から、伊賀上野城下町を抜けて奈良県方面へと至り、木津川や淀川を経由して京都・大阪方面へと通じる道筋だ。つまり、東国の家康が大坂へ向かう最短ルートにあたる。伊賀上野城は、秀吉の居城である大坂城を背後に置き、家康の進軍ルートににらみを利かす、大坂城の出城のような役割だったのだろう。
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央に位置する上野台地の北西端にある標高約184メートルの上野山に築かれている。上野台地は三方向に分かれる河岸段丘で構成され、北側を流れる服部川や柘植(つげ)川および南側の久米川は木津川へ合流する。上野城北谷堀跡あたりの微高地を利用し城下町は形成されたようだ。

大坂方面を向いた藤堂高虎の城
これに対して、高虎の城は大坂方面を向いている。本丸南西隅から東北隅に構築された長大かつ高い石垣は、まさに大坂からの進撃を迎え撃つ鉄壁なのだ。本丸を西側に拡張しその北西隅に天守を建てたのも、大坂方面に向けての威嚇(いかく)のひとつだろう。本丸西側には水堀を隔てて御殿があり(現在の三重県立上野高校第二グラウンド)、その西側には西之丸が置かれていた。御殿の西側からは、深さ11メートルの外堀も確認されている。

1600(慶長5)年の関ケ原の戦い後、家康はまず京都を押さえ、その後に大坂城を囲むようにして同心円状に主要街道上の城を強化していたことがうかがえる。新築や改修をし、城主を徳川方へ取り込み、大坂との決戦に備えて体制を整え、牽制(けんせい)を強めたようだ。1611年から大改修された伊賀上野城はその包囲網の最終段階の一角とも考えられ、文献からは万が一の際に家康が入る想定があったことも指摘されている。

城には必ず役割があり、情勢や城主の立場によりがらりと変わる。構造を読み解き機能美に触れるのも楽しいが、こうして城を通じて世の動きや城主の生き様を垣間見られるのもおもしろい。

藤堂時代の天守は建設中の1612(慶長17)年9月に暴風雨で倒壊し、再建されることはなかった。1615(慶長20)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したことにより、伊賀上野城の軍事的な存在意義がなくなったためだろう。高虎は津城(津市)に居城を移したが伊賀上野城は廃城にはならず、幕末まで城代が置かれ存続した。現在本丸に建つ復興天守は、伊賀市出身の代議士・川崎克が私財を投じて1935(昭和10)年に再建されたもの。伊賀文化産業城とも呼ばれている。
(この項おわり。次回は6月6日に掲載予定です)
#交通・問い合わせ・参考サイト
■伊賀上野城
http://igaueno-castle.jp/(伊賀文化産業協会)
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城には役割がある。今回の記事は拝読して特にそれを感じました。それにしても石垣が美しい!
写真に写る我が母校運動場、高校の校歌の中に、
♪ 城の石垣底深く、堀に据えたるさまを見る、崇高堂を庭つづき、学のしづけきさまを見る
があります。
懐かしく故郷の城の歴史を学びました。